主の御名を呼び求めている全ての人々と共に

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2013年09月13日 13:47

神の国の福音 私達の本当の姿~王族として~

【2コリント 3:17】
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。

多くのクリスチャンが救いを受けていながら、閉塞感を感じることは多くとも、自由を感じることが少ない。そのような話をよく伺います。
確かに救われている者は御言葉にあるように、主の霊がその内に住まわり自由をもたらす筈です。
しかし一向にその様子を味わうことなく、むしろクリスチャンであるからこその制約があり、その中でいつ終わるとも知れない閉塞感を感じている。そんな実情を抱えている人が多いのではないでしょうか。
その自由とは如何なるものなのか?どうすれば得られるのか?
考える暇もなく、日常の生活や教会奉仕などの教会活動に追われる。
でも少し待ってください。そのままでは、あなたは疲れ果ててしまうまで、その状態を考えることなく続け、やがて何もなくなり擦り切れるまで、あるいは何も得られることなくとも、小さな喜びを信仰の中に無理に見つけるようにして生き続けなければなりません。
聖書は別の個所で自由についてこのようにも語っています。

【ヨハネ 8:32】
そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。

そのような人は、自由を得させるという真理を知っていない。
その内には御霊が住んでいるので、全てはすでに与えられたものであり、自由はすでに得ているはずなのですが、自由を得させるはずの真理が覆われているため、得ているはずの自由が偽られているのです。

【エレミヤ 52:31-34】
ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十五日に、バビロンの王エビルメロダクはその即位の年に、ユダの王エホヤキンを獄屋から出し、そのこうべを挙げさせ、
親切に彼を慰め、その位を、バビロンで共にいる王たちの位よりも高くした。
こうしてエホヤキンは獄屋の服を脱いだ。そして生きている間は毎日王の食卓で食事し、
彼の給与としては、その死ぬ日まで一生の間、たえず日々の必要にしたがって、バビロンの王から給与を賜わった。

ここには神から救いを受けた者、解放された者の本当の自由な姿の型が描かれています。
罪を犯し続け、神から背を向け続けたイスラエルは、神の計画の一端を担う神に選ばれた民でありますが、その重ねた罪、除き難い罪深さ故に、かつて神に背く 異教の民バビロンに捕囚されました。多くの民はバビロンの剣に倒れ、疫病と飢饉に命を落としましたが、それらはそれまでの罪の裁きの故に起こったこと、神 はモーセの時代からイスラエルの民がそのように神に背くことと、それに伴う裁きについてを再三語られたのですが、それを軽んじる程、神を侮った民に預言通 りの現実が迫ったのです。
しかし、当時素直にバビロンに捕囚された者には、やがて主を見出だし主により救われ解放されることを預言されていました。

【エレミヤ 24:4-7】
主の言葉がまたわたしに臨んだ、
「イスラエルの神、主はこう仰せられる、この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を、わたしはこの良いいちじくのように顧みて恵もう。
わたしは彼らに目をかけてこれを恵み、彼らをこの地に返し、彼らを建てて倒さず、植えて抜かない。
わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。

その結果として、解放された者の姿が、預言に基づき【エレミヤ 52:31-34】に語られているのです。
同時に、ここには後の時代の私達、救い主イエスキリストに救われた者達の、解放の真の意味が型として預言的に語られています。

【エレミヤ 52:31-34について】
それでは、その解放された者の姿とはどのような姿なのか。
私達救われた者達の本当の姿をここで共に見ていきましょう。

「獄屋から出し、そのこうべを挙げさせ、(31節)」

まさしく、救いを受ける前の私達は、自分自身が生まれながらに持つ、罪から来る結果としての死の判決を受けた生まれながらの死刑囚でした。
しかし、イエスキリストはご自身が罪となられ私達を義とされたのです。

【2コリント 5:21】
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

義とされるとは、罪無しとされる、無罪とされたということです。
イエスキリストが私達の罪を負われ死を負われたことにより、私達は死刑囚としての身分を解放され獄屋から出されました。
イエスキリスト、神の子です。
神の子という方の考えられない程の絶大な価値ある犠牲により、その想像を超える程の大いなる命の代価により初めて、私達は無罪とされたのです。
もはや私達が罪に繋がれ罪の奴隷としてこうべを垂れ続けることはないのです。

「親切に彼を慰め、(32節)」

主は罪に捉われていた私達の過去そのものをも贖われる方、だからこそ、主が真に私達の慰めとなり得るのです。
罪にまみれ傷つき、傷つけて来た、どうにもならない過去はここで終止符を打ち、主による回復の道を、たとえそれが難しい道に思えたとしても備えてくださる神。
彼こそが自ら代価を払われた真の慰め主です。

「その位を、バビロンで共にいる王たちの位よりも高くした。(32節)」

そして、驚くべきことに私達を、全地にいる全ての王、また支配者よりも高い地位に着かせて下さったのです。
なぜなら、私達はキリストの花嫁として、その花婿キリストに贖われたのですから、私達の地位は救いを受けた時から、全地の王イエスキリストの花嫁としての王族の位置に着かせられるのです。
何と言う壮大な愛を受けていることでしょうか。
私達は救われたその時から、全地の王達の地位を遥かに超えた神の王国の王のロイヤルファミリーとなっていたのです。

「獄屋の服を脱いだ。(33節)」

私達はキリストと共に葬られ、また共によみがえったことにより、古き人を脱ぎ、新しい人を着たのです。そのことにより、罪人の服である獄屋の服を脱ぎ、私達は新しくされたのです。

【コロサイ 2:11-13】
あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。
あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。
【コロサイ 3:9,10】
あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。

この新しい人を着たとは、イエスキリストを着たということです。

【ガラテヤ 3:26-28】
あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

このことにより私達は王である方を着て、王族にふさわしい姿となりました。
いかに偉大な計画を主は私達一人一人に成し遂げたことでしょうか。
ただの罪人が王族とされる。イエスキリストの十字架の代価は私達を神の国において、考えられない地位の者として、私達を変えたのです。これが新生です。これこそが古い人から新しい人とされたということなのです。

「そして生きている間は毎日王の食卓で食事し、(33節)」

王と同じ食卓で食事をするとは、それほどの深い親しい交わりを意味します。
そして、私達は主ご自身との親しい交わりを回復しました。主に背を向けて生まれ、生き続けてきた者が、これほどの親しい交わりを与えられているのです。
この親しさの中で、私達の祈りを主は一言も漏らさず親しく聞き、御言葉を通し、また私達生きる時間の中のあらゆることを通して主はご自身の御心を親しく語られるのです。

「彼の給与としては、その死ぬ日まで一生の間、たえず日々の必要にしたがって、バビロンの王から給与を賜わった。(34節)」

私達は神の国においてのみ新生を受けたのではありません。この地上においても、私達は神との親しい交わりを回復しているのであり、そのことによって、この地上に生きるための私達の必要をも、主は当たり前のこととして心に止めておられるのです。
そこで、ここに主は私達の日々の必要にしたがって、その全てを主ご自身が満たされるという約束を表されています。

そうです。
これがあなた自身の本当の姿であり、これこそが本当の解放です。
自由とはただ罪が赦されて心が軽くなったとか、主を信じるのであれば、主に頼るのであれば、あるいは主が時により条件により祈りを聞いてくださるかも知れない、何となく幸運な人ではありません。
また信仰深く清く正しい品行方正な行動を重ねて生きることによって初めて、教会の仲間とされ、神の子とされるのでもありません。
私達はイエスキリストの一方的な愛に基づく犠牲のみによって、罪人から神の王国の王族とされ、それにふさわしい者となるべく罪の服を脱ぎ、キリストを着 て、王族の姿となり、王なる主とこの地上で親しく交わることをゆるされ、地上における日々の必要の全てを主に満たされて生きる者とされた、有り得ない程の 特権を与えられた者なのです。
これが救い、これが解放です。
もしも、神の王国を知らず、また自らの本当の姿を知らずに、不自由に生きるのであれば、それは既にこれらの特権を与えられているのにも関わらず、それを偽 られて、獄屋に自ら戻ってその中に閉じこもり、さらに罪の手枷足枷の鎖を自ら握り締めて、不自由な中に閉じこもって、「自由がない」と叫んでいるに過ぎま せん。
これは非常に残念な偽りです。
さらにその偽りが放置されるのであれば、キリスト教会の中でも互いを縛り苦しめ、閉塞感の中に眠る民とさせられてしまうのです。
主にある自由を得てください。
「真理は、あなたがたに自由を得させる(ヨハネ8:32)」のですから。

 

2013年07月31日 15:27

神の国の福音 私達の本当の姿~花嫁として~

【イザヤ 43:4】
わたしの目には、あなたは高価で尊い。

この御言葉の本当の意味を知っているでしょうか?
「わたしの目」=「神の目」に私達がどのように映っているのかを知る時、私達はこの言葉の真価を受け取ることになります。
つまり、ここには私達の本当の姿が投影されているのであり、その驚くべき私達の姿に、圧倒的な神の恵みが私達に注がれていることを知ることができるのです。

【エゼキエル 16:4-14】
あなたの生れについていえば、その生れた日に、へその緒は切られず、水で洗い清められず、塩でこすられず、また布で包まれなかった。
ひとりもあなたをあわれみ見る者なく、情をもってこれらのことの一つをも、あなたにしてやる者もなく、あなたの生れた日に、あなたはきらわれて、野原に捨てられた。
わたしはあなたのかたわらを通り、あなたが血の中にころがりまわっているのを見た時、わたしは血の中にいるあなたに言った、『生きよ、
野の木のように育て』と。すなわちあなたは成長して大きくなり、一人前の女になり、その乳ぶさは形が整い、髪は長くなったが、着物がなく、裸であった。
わたしは再びあなたのかたわらをとおって、あなたを見たが、見よ、あなたは愛せられる年齢に達していたので、わたしは着物のすそであなたをおおい、あなたの裸をかくし、そしてあなたに誓い、あなたと契約を結んだ。そしてあなたはわたしのものとなったと、主なる神は言われる。
そこでわたしは水であなたを洗い、あなたの血を洗い落して油を塗り、
縫い取りした着物を着せ、皮のくつをはかせ、細布をかぶらせ、絹のきれであなたをおおった。
また飾り物であなたを飾り、腕輪をあなたの手にはめ、鎖をあなたの首にかけ、
鼻には鼻輪、耳には耳輪、頭には美しい冠を与えた。
このようにあなたは金銀で飾られ、細布、絹、縫い取りの服をあなたの衣とし、麦粉と、蜜と、油とを食べた。あなたは非常に美しくなって王の地位に進み、
あなたの美しさのために、あなたの名声は国々に広まった。これはわたしが、あなたに施した飾りによって全うされたからであると、主なる神は言われる。

神を知らず、罪の中に転げまわり、助ける者もなく、掛け違えた人生を歩み続けていた私達を主イエスは救ってくださいました。それは私達をご自身の花嫁とするためです。
聖書の結論、神のご計画の結論は主イエスと、彼を愛する者である救いを受けた私達、花嫁との結婚です。
そしてその計画は聖書の最初から描かれています。それは最初の人、アダムとエバの結婚。
全ての人はこの二人の結婚を根源としてます。人は結婚という事実の上に神の祝福を受け、子孫を増やし続けます。今日もその事実は何ら変わることはありません。全ての人が漏れることなくこの結婚という事実の上に生まれ、結婚の奥義はここに受け継がれています。
言い方をかえるのであれば、神は全ての人の根源である結婚の中に、この聖書の結論を重ねて語り続けておられるのであり、この結婚は聖書の最初から最後までを貫く、神の奥義であると言うができるのです。
事実、神が私達を救われた花嫁としての神の選びは、万物が造られる以前にあったことが聖書に語られているのです。

【エペソ 1:3-7】
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。

つまり、主イエスは私達が生まれる(天地が造られる)前から、私達を花嫁として選んでおられたが、生まれ持って罪を持ち、神を退け、罪の中に転がる私達をご自身の血(命)の代価により買い取られた。
そして、ご自身の血で罪に汚れ果てた私達を洗い、救いの衣を着せられたのです。
花嫁にふさわしい者として、主ご自身がその全ての飾りを与え、私達にまとわせたその飾り物が完全であったからこそ、その美しさのために、私達の名は諸国の民の間に広まるのです。
私達が与えられた救いとはいかなる壮大なものでしょうか。
この恵みの大きさにあなたの想像と理解は追いつけないかも知れません。
何せ主はご自身にふさわしい花嫁とするために、主の栄光の内に、主と同じかたちに姿が変えられて行くまで、私達をご自身で飾って下さるのです。

【2コリント 3:18】
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

そして、それは救いを受けたその時から、すでに全てが私達の内に住まう御霊なる主によって与えられているのです。
主イエスの花嫁としての主の栄光に輝くあなたの姿が本当のあなたの姿、それこそが主によって新しく生まれたあなたの真のアイデンティティーです。
あなたはここに注がれている花婿主イエスの愛がわかるでしょうか?
花婿は花嫁を美しく飾らないではいられないのです。その栄光の輝きは全て花婿のため。全ては花婿が栄光を受け、その喜びを共にするためなのです。
花婿の愛を知らない花嫁を、主は何と悲しまれることでしょう。

【エペソ 3:17-21】
また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

神の目に映る本当のあなたの姿の価値をあなた自身が知る必要があります。
なぜなら、それを知らないではあなたは救いを受けるまでの惨めな姿と何も変わらないままで、神があなたを高価で尊いと言っているように勘違いをするでしょう。
しかし、主は私達を花嫁にふさわしい者にされようとしているのです。そして全てはすでに与えられている。何も知らないままでそこに至ることはありません。その姿のまま生涯を歩まなければならないという惨めな歩みを主は望んでいないのです。
花婿の愛を知らない花嫁を、主はどれほど悲しまれるでしょうか?
だからこそ、この愛を知るために、またさらには花嫁が花婿を愛するように、主を愛するということを知るために、私達はこの生涯を歩むのです。

あなたが主に在る本当のアイデンティティーを知り、想像を超えた豊かな歩みを始めることができますように。

2013年07月17日 19:21

神の国の福音 イエスの語られた福音

福音の本質が初代教会の時代に語られていた内容と、今現在語られている内容とでは大きく異なってしまっている。
この事実に突き当たった時、私は大きなショックを受けました。
というのは初代教会時代の教会と現存している多くの教会とでは、その力を全く失ってしまったと言っても過言でないほど、別のものとなってしまっています。
初代教会の時代に語られていた福音の力強さは、まさしくイエスがこの地を歩まれ宣教をされていた当時、また使徒行伝の時代に多くのクリスチャンを通して宣教がなされていた当時に起こっていた事実を聖書の中から忠実に読むのであれば、それは一目瞭然、現代とは比較にならないものであるということは言うまでもないことでしょう。
病が癒され、死人がよみがえり、悪霊が出ていき、毒を飲んでも害されることがない。
今の時代にはこれは絵空事のように思えるでしょうか?
あるいは詐欺紛いのもの、あるいは神の霊の働きとは一概に言えない危険のものとでも思えるでしょうか?
いいえ、違います。ここには神の確かで圧倒的な臨在があり、神の国がそこにあったのです。
手に取るように確かな形で、神の国が顕れているからこそ、現実は神の国の性質に従ったのです。
必ず死が訪れる呪われてしまったこの地の法則に従うのではなく、永遠の命溢れる天の法則に従ったのに過ぎないのです。
では長い時代の経過の中で大きく異なってしまった、福音の本質、その内容とは如何なるものでしょうか?

【マルコ1:15】
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

イエスはこの宣教の始めにこのように語り始めました。神の国の訪れをまず最初に伝えたのです。
そしてそのために、悔い改めて福音を信ぜよと。
さらに宣教が進められるとイエスは驚くべきことを語り始めました。

【ルカ 11:19,20】
もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。
しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

ここでは神の国は来たという過去形で、事実が語られています。神の国が近づいたところから、来たという過去にすでになされた事実となっているのです。
そして神の国がどこにきているのか、さらに所在が明確に語られます。

【ルカ 17:20,21】
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

つまり、神の国はどこそこにあるのではなく、私達のただ中にあるという大胆な宣言をしているのです。
神の国はすでに来たものであり、それが私達のただ中にある。これがいかに衝撃的な事実かわかるでしょうか。
本来神の国は天に存在しているものであり、私達には全く関係のないものと思っているでしょうか?
それとも教会を総称して、そこに神の国が来ているとだけ考えるているでしょうか?
しかしここで語られている神の国の顕れは人の目で見てはっきりとわかる、力を持って天の性質が顕現するものであり、雰囲気的に平安な、聖なる印象の、愛のある共同体として、と言ったイメージ的な天国的雰囲気を醸し出しているということとは全く異なります。
この地上の法則、秩序を超越した神の国が今私達の中、ここに来ており、それが現実の世界に力を持って現れて出ているということなのです。
ここに私達が入ることを、イエスは招いているのです。

【ルカ 16:16】
律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。

ここに突入するようにと神の国が宣べ伝えられた、これが福音の本質です。
さらにイエスの語られたことが、神の国についての説明に大半を費やされているという事実を、もしもあなたが福音書をそのような視点で読むのであれば、新鮮な驚きと共にその目で見出すことができるでしょう。
イエスは神の国について力強く語り、すでに来ているこの神の国に入るよう私達を招き、さらにその神の国の性質と、神の国の完成に向けての神の計画とを語ることに宣教の時間の大半を費やされたということなのです。
いかに神の国の福音が重要であるのか。
当時語られていた福音は神の国の福音であったのです。
「御国の福音」(マタイ4:23,マタイ9:35,マタイ24:14)
「神の国の福音」(ルカ4:43,ルカ8:1)
「神の国のことを語り聞かせ、」(ルカ9:11)
「神の国を告げひろめなさい」(ルカ9:60)
「神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝える」(使徒8:12)
「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。」(使徒28:31)

救いという事実の中には、これほどの絶大な計画と主の御心が注がれています。いかに私達は救いという事実を表層的にしか受け取って来なかったことでしょうか。
十字架により罪を贖われ罪なき者とされた。
その事実は、罪人は決して神の国に入ることができないからこそ、この神の国に入るために主がなされた御業であり、まさに主のご計画の入口に立ったに過ぎません。
確かに主が払われた贖いの代価は、あの万物を創造され、万物を保っておられる神の、その比類なきひとり子の血です。それは私達の創造をはるかに超えた絶大なる価値あるものを主は私達のために流されました。その事実の重さを、その厳粛な事実を前に私達はひれ伏さざるを得ません。
ここにすべての約束が集約し、すべてがあるのであり、救いを受けた私達はすでにすべてを与えられているのです。
が、その全容を私達は知らな過ぎるのです。
そのために多くの人がこの入口から先に入ることを知らず、神の国に入るよりも、これまで歩んできた生き方を元に信仰を建て上げようとするのです。その結果、世の宗教活動と何ら変わることのない力のない宗教が誕生するのです。
それは世に戻ってから信仰を世の上に建てようとする行為であり、主イエスが語られた福音とは全く異なった教えに過ぎません。
なぜなら、主は神の国に入れと言われているのです。
それは世の法則とは全く異なる性質を持つ、神(天)の性質に基づく、神の国に入れというのです。
この神の国において信仰生活を始めるのでないなら、どのようなことをしても、何も意味をなしません。

【マタイ 6:19-21】
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
あなたの宝のある所には、心もあるからである。

ではどのようにすれば、この神の国に生きることができるというのでしょうか。
それはあなたがすでにキリストにあって新しく生まれた、新生経験を持つクリスチャンであるのであれば、誰もが既に受け取っている、内に住まわれる神、聖霊の働きによります。

【エペソ 1:13,14】
あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

この「保証」という言葉には、前金という意味が含まれています。前金とは、先に一部代金を支払うことによって、その品物自体を受け取ることができるというもの。
つまり、私達が聖霊を受け取っているということは、神の国をやがて私達は確かに受け取ることであるけれども、その前味として、本来やがて受け取るべき神の国を今受け取っているということなのです。
やがて受け取るのは神の国の全体像、完全なる実体、神の国そのものですが、今はそれを部分的に受け取るということです。
とは言え、これが一部分を前味的に受けると言っても、神の国が私達の生活する現実に溢れ出てくるわけですから、そのスケールは私達の想像できないレベルのものです。
そしてこれこそが、イエスが地上を歩まれ宣教をされていた時代、また使徒行伝の時代に力強い伝道がなされた、その源となった真理です。
つまりエクレシア(私達)を通して、神の国をこの地上に来たらしめる、これが今の時代の私達に対する神の計画なのです。
私達が神の国に生きることにより、神の国を地上に来たらせ、神の計画を押し進める。
このことによって、やがて神の国は(ヨハネの黙示録の中にその全体像が語られていますが)完全なる形で完成します。神はその計画を突然完成させるのではなく、このように私達を通して徐々に段階的にその計画を、すでに進ませているのです。
あなた自身が本来いかに神の計画の中で重要な位置にいるのかということがわかったでしょうか。
そして、これは人の知恵によっては決して辿り着くことができない、神の知恵、聖書が直接あなたに語りかけている事実なのです。
いかなる聖書的・信仰的学問も、神の計画を捕らえることはできません。かつて聖書に関する学問の専門家であった律法学者や、パリサイ人、そして神の計画を担うために神に選ばれた選民イスラエルでさえ、人の知恵によっては神の計画を知るに至らなかったのですから。

【1コリント 2:6-8】
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。

2013年06月02日 22:19

黙示録(6)~ バイブルスタディー その72

本日の学びは、2011年から始まった預言シリーズの最終回です。

いよいよ子羊との婚礼が催され、最後の審判の後、地上での御国の再建と新天新地の創造の時が訪れます。私たちが待ちに待ったその日の情景です。

本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです

 

黙示録19:  子羊の婚礼

19:9 花嫁は麻布の衣:クリスチャン達の義認を示す。

19:10 イエスのあかしは御霊。

19:13 イエスの血(十字架の血)に染まった衣、大淫婦は紫と緋色の衣(17:4)。

19:21 神につく者たちは天での大宴会に出席し、地では鳥に肉を食われる。肉食はノアの方舟の後の鳥(カラス)に始まり、鳥で終わる。

 

黙示録20章: 最後の審判

20:8 千年王国の時代にあっても、最終的にゴグマゴグに惑わされる者たちが、砂のようにいる。ゴグマゴグは、真に神の側につかない者たちの篩分けに用いられる。

20:11 最後の審判で、完全に悪は滅ぼされる。

 

黙示録21:  新天新地

21:2 新エルサレムはいつ降りてくるのか?大艱難の最後?千年王国の最後?

21:1、4、23 無くなるもの:死、悲しみ、叫び、苦しみ、夜、海、太陽・月

21:3 主の願われていること。

21:8 火の池に投げ込まれる者たちの筆頭は、おくびょう者。艱難にあっては、主について行く勇気が重要となる。

 

黙示録22:  結び

22:2 エデンの園の回復。

22:12 主の聖なる主張。

22:10-11 時が近づくにつれ、神の側と悪の側がはっきりしてくる。

 

2013年05月27日 05:51

黙示録(5)~ バイブルスタディー その71

最後の鉢が投げられ、大淫婦・大バビロンが裁かれます。神は決して侮られる方ではないことが、ここではっきりと証明されます。

本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです。

黙示録16:  鉢と七つの災い

15 七つの鉢は全ての人々にぶちまけられる。1/3ではない。悔い改めではなく、裁きの時。出エジプトでの裁きと類似点がある。

15:12-13 王たちと悪の三位一体(竜、獣、預言者)が第七の鉢のために集められる。

16:15 最期の時に備えて、目を覚まし、着物を身につけておく必要がある。

 

黙示録17:  大淫婦の裁き

大淫婦とは

17:1 大水(17:15)の上に座っている

17:3 獣の上に乗っている。⇒反キリストの上に乗せられている。

17:9 七つの頭:七人の王が出るが、五人は死に、六人目が居り、七人目はこれから来る。

17:10 十本の角:十人の王たちはひと時だけ獣とともに王の権威を受けるが、17:16 時が来ると獣と十人の王は大淫婦を攻め、焼き尽くす。

17:18 都のこと。

17:6 大淫婦は聖徒達を迫害し、殺害しているのを楽しんでいた。ヨハネはこの女を見て驚いた。⇒ 大淫婦はクリスチャンに近い都かも(バチカンとか)。

 

黙示録18:  バビロンの裁き

大バビロンの破滅に対する人々の反応

18:4 神の民は離れていること。罪にあずからないため、災害を受けないため。

18:10 王たちは、遠く離れて泣き悲しむ。

18:15 商人たちは、遠く離れて、泣き悲しむ。⇒商売ができなくなるから(18:11)

18:17 船長、客、水夫、海の者たちは遠く離れて泣き悲しむ。⇒富がなくなったから(18:19)

18:23 今は魔術に騙されている(例えば金融サービス)。

2013年05月20日 05:37

黙示録(4)~ バイブルスタディー その70

最後のときに向かって、重要なしるしが続きます。そしていよいよ最後の災いへと移って行きます。この黙示録は、私たちクリスチャンを励ますために与えられたのだということを思い出してください。本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです。

黙示録13:  地の獣と海の獣

主役がほぼ出揃う。

赤い竜:サタン、海の獣:異邦人の帝国?、地の獣:祭司職(13:12-13)

敵は神を擬似的に表す。

13:3 死と復活の経験(キリストの死と復活)

13:4 獣に竜が権威を与える。「だれが。。。。。」神に対する表現と同じ。

13:12 権威を働かせる。拝ませる

13:13 しるしと不思議(エリヤのように)

13:16 右の手か額に刻印(神の側は神のしもべとしての印、小羊・父の名)

13:16 子羊の印か敵の印を押し、自分のものとすることの争い。陣取り合戦。

 

黙示録14:  収穫のとき

14:6 ここにおいて福音は御使いから直接伝えられる。

14:13 主にあって死ななかった者は、どうなるの?

14:14-16 穀物の刈取りは人のような方によってなされる。イエス?

14:17-18 ぶどうは御使いに刈取られ、都の外で踏まれる。(ヨエル3:13)

14:20 さばきは全地に広がる。1/3ではない。

 

黙示録15:  最後の災いに向かって

15:2 打ち勝つべきもの:獣、像、数字

15:3 出エジプトの後にモーセの歌は歌われたが、ここでは最後の裁きの前にモーセの歌(律法)と子羊の歌(律法を完成されたお方)が賛美された。⇒聖所が開かれる。

15:7 神の怒りの詰まった鉢は、地にぶちまけられる。聖徒たちの祈りの詰まった鉢は、御座の前に立ち上る。 

 

2013年05月12日 21:07

黙示録(3)~ バイブルスタディー その69

終末に向かっていくつかの恐ろしい事柄を経なければなりませんが、敵との戦いは神の義を確立し、王国を建てるためには避けては通れないことなのです。本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです。

黙示録9章:  第五、第六のラッパ

9:1 第5のラッパから、自然による災害から戦争などの人的な艱難に移る。底知れぬ穴の鍵をもつ星が落ち、開かれる。落とされる星が重要。いなごは軍隊か?

9:13 聖徒たちの祭壇からの祈りとともに、物事が進む。

9:15 主の哀れみによって悔い改めの機会が与えられる。⇒1/3しか殺されない。

 

黙示録10章:  小さな巻物

10:2 もうひとりの御使いは、地と海、ユダヤ人と異邦人を支配される方。⇒イエスか?

10:11 もう一度、第7のラッパの前に預言される可能性がある。預言は完成されているので、預言の解き明かし、またはすでに示された預言に光が当てられる。

 

黙示録11章:  二人の証人と第七のラッパ

11:3 二人の証人は?モーセとエリヤ?、エノク?、二つの教会(スミルナ、フラデルフィア)?

11:12-13 これまでの艱難では神を崇まなかったが、ここに来て神の業を見、人々は神をあがめた。

11:18 最後のラッパの後、怒る側と報いを受ける側に分かれる。

11:19 旧約時代に作られた人の手による契約の箱ではなく、天にある本物の箱。

 

黙示録12章: 落とされるサタンと太陽の女

12:1 ひとりの女:イスラエル?教会?

12:9 古い(イブを惑わした)蛇(サタン)は、諸々の使いとともに地に投げ落とされた。⇒二度目

12:10 サタンは昔から告発者

12:11 兄弟たちが勝ったのは、子羊の血とあかしのことばによる。また命を惜しまない覚悟が求められる。

12:14-17 地上に投げ落とされた直後は蛇で、その後に竜となる。

 

2013年04月29日 06:04

黙示録 (2) ~ バイブルスタディー その68

いよいよ封印が解かれ、最後のときが始まります。王国の建設の前に裁きが行われますが、私たちクリスチャンを励ますためにこの黙示録が与えられたのだということを、忘れずに読んでください。本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです。

黙示録5:  解かれる封印

5:5-6 イエスの十字架のみが、封印を解くことができる。十字架の目的は、①人々の罪からの解放とともに、②終末の扉(敵への裁き)を開くこと。

5:8 聖徒たちの祈りとともに、終末は動いていく。⇒御国が来ないことに絶望することなく、祈り続ける必要がある。不正な裁判官とやもめ ルカ18

5:9-10 贖いはすべて神のため。自分達のためではない。

 

黙示録6:  第一~第六の封印

6:2 白い馬:キリストではない。騙されないことが重要。IIテサロニケ2:3-4

6:6 悲惨な飢饉の状況ではなく、物価は上がるがギリギリ生活していける状況。オリーブ油(御霊)と葡萄酒(イエスの血)には害が加えられない。

6:9 祭壇の下にいる者達。パラダイスにいるキリストを証して死んでいった人々?

 

黙示録7:  神の御国での賛美

7:5-7 ダン族は印を押されない。IIコリント1:22 

7:15 白い衣を着せられた人々の上に、主は幕屋を張られる。

 

黙示録8章: 第七の封印と第一~第四のラッパ

8:1 嵐の前の静けさ

8:4-5 聖徒達の祈りとともに裁きが始まる。

8:7-12 前半の四つのラッパ:自然災害

8:13 後半三つの禍への警鐘(三回の”わざわい”)。

2013年04月22日 06:16

黙示録 (1) ~ バイブルスタディー その67

イエスの十字架によって新しい歴史が始まり、地上に対するサタンの支配からの解放への道が開かれました。そして完全なる解放に向かって敵との戦いが激化していきます。完全なる解放へと向かう終末への道程を、神の視点から示したものが黙示録です。本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです。

黙示録1: イエスの示された幻

1:3 ダニエル12:4は、終わりの時まで書を封じられた。ヨハネはあかしした。時が近づいたから。

1:7 初臨と異なり、イエスの再臨はすべての人が見る。

1:9 パトモス島に流されたのは、黙示録を書くため。

1:16-17 イエスの右手に教会:教会はイエスによって保護されており、同じ右手でヨハネを励ます。

1:18 イエスは天の国とともに死の国をも支配する。

 

黙示録2: 七つの教会(1

2:4 はじめの愛から離れた。⇒ 厳格な教会が行き過ぎ、裁き合いになった。

2:5 立ち直る方法は、①どこで落ちたかを思い出し、②悔い改め、③初めの行いに戻る。

2:9-10 同胞から迫害を受けている教会

2:14 サタンの王座がある場所に建てられた教会にもかかわらず、信仰を捨てなかった教会。⇒敵の方法はちょっとしたバラムの教え。内部崩壊を図る。

2:20 女をなすがままにさせた男にも、責任がある。

2:24 テアテラの教会にあっては、残された人々にしか望みはない。

 

黙示録3: 七つの教会(2

3:1 人間的には生きているとされているが、実は死んでいる教会が多い。

3:2 死んでいる教会はどのようにして目を覚ますのか。⇒ 3:3 どのように受け、聞いたかを思い出す。⇒救われたときの十字架。十字架を固く守って悔い改める。

3:8 少しばかりの力。⇒フィラデルフィアの教会は、からし種ほどの信仰でことばを守り、名を拒まなかった。

3:13-14 物質的には富んでいても、裸であることを知らない、熱くも冷たくもない教会も多い。

⇒ 精錬された金、白い衣、目薬が必要。⇒訓練されておらず、キリストを着ておらず、霊の目も見えない。イエスキリストの気配が全くしない。⇒ 3:20 教会の中心にいるべき主がおられないから。

 

黙示録4章: 天における礼拝

天の御国は落ち着かないないかも

 

 

 

 

 

2013年04月14日 19:57

ルカ(6)~ バイブルスタディー その66

イエスは終末で起こることを預言し、預言のとおり自ら十字架につかれました。そして復活の後、預言者達の最後の準備を整えられます。本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです。

ルカ21: 終末について

21:12 迫害が証の場として用いられる。

21:33、36 終末にあって重要なこと:御言葉をしっかりと握ること(33)、油断せずに祈っていること(36)。

 

ルカ22: 過越しの食事とイエスの逮捕

22:15、24 イエスが楽しみにされていた過ぎ越の晩餐(新約の契約の場)に参加した人たちは、肉のため論争を始める。聖なる場と出席する肉なる人が対照的。

22:31-32 霊的戦いにはイエスの執り成しが必須。これがないと無防備となる。

22:35-36 イエスがいなくなった後の世の中に対する福音には、現実社会で生活するための十分な備えが必要。9章とは対照的。暗闇の時に入るから(53)

 

ルカ23: 十字架

23:23 ピラトはイエスに罪がないことを三度認めたが、群衆を恐れて十字架につけた。

23:27 危機に面したとき、危険を顧みずについて行けるのは女性。男性は逃げるだけ?

23:40 十字架上の罪人は初めて福音を聞き、イエスの取り成し(34)の言葉によって救われた。

 

ルカ24章: 復活と預言のミニストリーの準備

24:33 イエスの取りなしによってクレオパたちは弟子に戻る(エルサレムに戻る)ことができた。

24:49 福音には、内側に聖霊を宿すだけではなく、御霊によって与えられる力を着ることが必要。

 

 

 

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