先日のメッセージの中でお話したゴスペルのある曲。これがその歌詞です。
When I think about the Lord How He saved me, how He raised me How He filled me with the Holy Ghost How He healed me to the uttermost When I think about the Lord How He picked me up and turned me around How He set my feet on solid ground
It makes me want to shout Hallelujah! thank you, Jesus! Lord, you're worthy of all the glory, and all the honor and all the praise! Hallelujah! thank you, Jesus! Lord, you're worthy of all the glory, and all the honor and all the praise! (ephesians 2:4-7, 2 corinthians 5:17)ここには救われた喜びが歌詞に溢れています。
そう確かに、救われたあの喜びはクリスチャンであれば、等しく知っているはずのものです。
「喜びなさい。」と幾度も聖書が語るこの喜びは喜ぼうとして努力するものではなく、喜びがその内側から溢れ出て来るもの。その全ての喜びの源泉は救いの喜びであり、新しく与えられた命から溢れるものなのです。
それは何にも揺るがされない永遠に変わることのない喜び。だからこそ、価値がある。
そして、神を知った、神に愛されていることを知った喜びは、やがて神を愛する喜びへと成長して行く。
それはどのような苦境をもいとわないもの、自らのためではなく主を愛するがゆえに生きる生き方。
そのようにただ一心に主を愛する者を主は喜ばれ、さらにその喜びが私自身の中に溢れ来て、とどまることのない喜びが全ての日々を時間を覆う。
だからこそ、主を思うとき、その喜びで、この歌の中にあるように叫びたくなる。ただ主をたたえるために。
これはクリスチャン人生の醍醐味ですね。
確かに、思い出すのであれば、私は救われるに当たり、およそ人生の最も過酷であったであろう状況に陥りました。
しかしそれがあったからこそ、救われたという確信に、神に感謝こそすれ恨むことはありませんでした。
むしろそうであったのであればそれは救われていないということでしょう。
なぜなら、救われた喜びは何にも勝ることを、まだ聖書も何も知らない、当時の私でも、その内側が知っていました。
難しいことは何も知らなくとも、これさえあれば生きていけると知っていました。未来は何の理由もないけれど光に輝いていた。
それは何を犠牲にしたとしても価値ある、いやそれを知らなければ、受け取らなければ全てが無意味であることを理由なくすでに知っていたのです。
【ピリピ 3:8,9】
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
今、その喜びを再び思います。
始めの愛の深さを。
全ての理屈・知性を置いて。ただ主に感謝をささげます。
全ての疲れた魂に主の深い愛と命が注がれますように。