信仰の歩みにおいて諸々の問題に直面する度、主(の御業あるいは解決)を待ち望むことになりますが、その究極は贖いの完成をもたらすことになる再臨です。そこに希望を持ち続けること(特に意識したとき)は、信仰者に既に与えられているキリストの命に活力と躍動感をもたせてくれます。ですから私たちがいのちを流そうとするところにも当然それ等が付随しています。しかし、世に在ることがつらい、希望が持てない(クリスチャンにとっては当然)といった理由で携挙を願うのは刹那的であり、不健全です。流す以上はパウロのように大使の役を担うべきです。大げさと思われる方がいらっしゃると思われますが、キリスト者には大使として必要不可欠な「大胆さ」---自由裁量権が与えられているのです。そこにはもちろん大使自身のその人’らしさ’が含まれています。大使としての働きに先に述べた活力と躍動感がまみえるところに活ける神の臨在(栄光)が現れることでしょう。br>
ところで信仰者が持っている「大胆さ」と主の前にへりくだることは相反するものではありません。むしろ積極的に共存そています。キリストのゆえに「大胆に」神に近づくことのできる自由を意味しているのであり、心砕かれてへりくだった人とともに住まわれる主だからです。
イザヤ40:31、57:15、エペ6:10-20、Iテサ2:18、イザヤ11:1-5、
使28:20、ロマ15:12、マタイ24:3-4、25-28、黙11:1-11