主の御名を呼び求めている全ての人々と共に

わが道の光 ヨハネ5:7

2013年05月02日 16:10

【ヨハネ 5:7】
この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。

主の御心と自分の思いを一つにすることは難しいことです。なぜなら、常に私達の狭い心の思いや、あまりにも低い視点から見た近視眼的なものの考えは、あまりにも壮大なる主の御心の前に、無意味に立ちはだかってしまい、主の妨げにすらなるからです。
ここでは主は「なおりたいのか」と語りかけています。しかし語りかけられた病の男の方は自分の経験則と知りうる方法論から、見当外れの答えを主にします。滑稽にすら見える返答ですが、私達の中にも同様な現象をよく見かけます。
主が私達に聞こうとしていることは根本的な問題のことであり、私達の経験則や狭い視野で見た結果考え出した方法論ではないのです。聖書の中で主は悩める小さな弱き私達に、どうして欲しいのか?根本的な願いを求められます。
方法論を神に指定して、神の御業をそして御心を狭める必要はないのです。
祈りにおいて、その祈りがどのように叶えられるのかを、私達が苦労して考えたり、そこに心配を重ねることは無意味なのです。
主は「私はある」と言われる全てのはじまりであり終わりである方です。この方にできないことなどは存在していません。何もない無から有を生み出す方なのです。そのようにして天地万物を、私達が今目で見ている全てのものを、創造されたのですから。私達がその結論に至るまでの過程を心配する必要はありません。
つまりこの方の御業を止めているのは、私達自身。主を私達の理解できるに範疇に閉じこめているのは私達なのです。
それでもなお、主の前に立ちはだかり、自分の思いを主張し続けますか?
よく耳をすましてください。主が何をなさりたいと語られているのか。そして、主がせよと語られる言葉に従うのです。

「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

私達の思いをおいて、主に自分をゆだねた時、私達の想像を遙かに超えた主の御業が始まります。この方こそ神であると誰もが心砕かれ、主をほめたたえるような圧倒的な主の御業が。

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