主は私達にかなり早い段階から、ハガイ書やエズラ・ネヘミヤ記を通して、主の宮の再建について語ってこられました。これはあくまで"再建"であり、新しく宮を建て上げるというものではありませんでした。あるいはそのままの状態で主のさらなる大きな栄光を見るという、単純な宮の栄光の拡大でもありませんでした。
私達のエクレシアが、バビロン捕囚後の焼け野原、荒れた更地のようになったエルサレムに見るように、主の聖別を経て、前の栄光よりもさらに大きい主の宮の栄光を見る、つまりはエクレシアが死を経てよみがえりに至り、勝利が死を飲み込む姿を見るということをかなり以前から語られていたという事実を知るのです。
私達は旧創造から新創造へ、古い天地が消え去り全てが新しくなる新天新地、新エルサレム、そして完全なる主の新しい宮の完成を結論とする信仰を与えられています。それは私達個人個人にも、あるいはエクレシアに対しても、この旧創造から新創造への転換を先取りして受け取る者であるということを意味しています。それが全てのキリスト者が経験する、死とよみがえりの実体験を持つ信仰生活なのです。
個人でも死を自覚する経験をすることがあるように、エクレシア自体も人の目には何もなくなってしまったように思える程の死を自覚する経験をすることがあるのです。そして主が死んだままの主ではなく栄光の体でよみがえられたように、私達もさらに大いなる栄光をもって、新天新地、新エルサレムを先取りして実体験する、それがエクレシアなのです。
ですから、これはすでに完全なる希望をもって語られていたのです。そして全てが主から始まった計画であり、主の御手の内にあることなのです。どうして死を見て悲嘆に暮れ不安におののく必要がありましょうか。そうです。「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったので」すから。
聖書箇所:2コリント5:17