主の御名を呼び求めている全ての人々と共に

主を悲しませないために

2013年09月08日 18:16

聖書箇所:ルカ18:8
  信仰経験がある程度長くなってくると、信仰生活はだんだんと安定し、ある意味バランスが取れてきます。それが揺るぎない信仰を意味するものであれば確かに喜ばしいことです。しかしそれが信仰生活の妥協を意味するバランスの安定であるならば、事は喜ばしいことではありません。
  それは聖書の言葉に従うのではなく、御言葉を自分なりに言い訳した妥協した生活であったり、また日々神に近づこうと願うことをあきらめ、それなりの程良い距離感を神に対して保ち、また神を愛することを妥協して、つまりは神との関係を妥協する生活であったりなど。自らの日常生活や欲求を優先するために、各々が良しとするところを自分なりの信仰として保っていく生活を意味します(ルカ14:15-24,ルカ17:26-33)。
  もしも人の子として来られたイエス様が同様にこのような生活をしたのであれば、公生涯が3年半で終わらず何年もその目標が達せられないばかりか、十字架にさえかかられることはなく、あるいは大工の子としての生活に甘んじていたかも知れません。もちろんイエス様は罪を知らない方であり、父の御心に完全に心を一つとして歩まれた方ですから、そのようなことありえませんが。
  ただし、人の子として主は、罪を贖われた人である私達がどのようにこの地上で歩むべきか、模範を示すべく御足の跡を残されたのですから、私達の妥協した信仰生活を主が喜ばれるはずなどありません。私達はどこを目指して歩むべきなのか、主の歩みから知る必要があるでしょう(ピリピ2:5-9,ピリピ3:13-16)。
  イスラエルの民は彼らなりの信仰生活を保ってきたにも関わらず、主の御心を知るに至らず、初臨のキリストを悟らず、自らの手で十字架にかけてしまったのと同様に、もしも今私達がこのように妥協した信仰生活を続けるなら、私達は再臨の主が来られたことがわからず、どれほど主を悲しませることとなるでしょうか。主の御心を仰ぎつつ私達の信仰生活をもう一度聖書から見つめ直したいと思います。

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