十字架によってキリストの律法が適用され、私たちはキリストにあって自由とされました。もはや律法に対しては死んでおり、それに悩まされることはなく自由 を満喫できます。それでは自由を満喫するために欲望のままに生活できるのでしょうか?あるいは聖いクリスチャン生活を保つために、相変わらず律法を守ろう と努力せねばならないのでしょうか?それとも世の欲望にのめり込まず、かつ律法主義にとらわれないようにバランスをとった生活を心がけるのでしょうか? 一方、神は義であり愛であるお方ですから、私たちも信仰(信仰の義)と愛(アガペー)を全うさせることが求められます。残念ながら私達は自分の力ではこれ らを全うすることができません。しかし、イエスキリストの十字架によって私たちは義とされ、イエスキリストがフィレオの愛を受け入れて下さいます。私たち が求められている事は、自分にとっては無駄だと思われる事を注ぎだす事です。何故なら私たちが行う事に自分の栄光を求め、自分を誇ろうとする意思がある限 り、神が受け入れられる義や愛ではなくなってしまうからです。自分中心で行っている事を神は用いられません。私たちができることは、無駄に見えることを淡 々と行うことです。それらを用いられるかどうかは神の御意志によります。そして神に用いられたことは神の義に沿って、アガペの愛となって人々に伝わるで しょう。
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