【1コリント 15:17-20】
もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
あなたはよみがえりを信じているでしょうか?
イエスキリストがよみがえられた事実と、あなた自身がよみがえったという事実。これをあなたの主観的事実として、受け取っているでしょうか?
全てイエスを救い主として受け入れ信じたクリスチャンは、キリストにあるバプテスマ、つまり洗礼を原則として受けているはずです。
これはキリストの死に預かることと、それにより同時にキリストのよみがえりに預かるということであり、クリスチャンとなった者には共通の経験です。
【ローマ6:3-5】
それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
しかし、この洗礼が信仰入門、あるいは教会会員として入会するための通過儀礼的な宗教儀式として、形骸化した経験しか持たないのであれば、それは最も望みのないものです。
この十字架の死とよみがえりの事実を自分の主観的現実(経験)として受け入れられず、またよみがえりの絶大かつ圧倒的な恵みを、その本質的な意味を全く知ることなく、クリスチャンとして生涯を送る人達は、「この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけ」の虚しい人、「すべての人の中で最もあわれむべき存在」であると言えるのです。
そしてその事実に基づきあなた自身の持っている信仰の真価が問われるように、時代は厳しい現実を世界中に突き付けるものとなってきました。
ある人はこの厳しい現実を見ないように生きているかも知れません。確かにそのような傾向は社会全体の流れにおいても、あるいはクリスチャンであっても、信仰者の集まりである教会や教団といったものの中でも、見受けられるのですが、だからといって心の奥底を言い知れない不安で覆ってしまうような厳しい現実が、個人個人の生活を襲って来ているのは紛れも無い事実です。
確かにここに不安を抱えて生きているのは不信仰のように思われ、口にするのをはばかり、あるいは信仰を奮い起こすように何事もないかように生きることもできるでしょう。
しかし、この現実が加速度的に力を持ってあなた個人の生活に襲うようになるのであれば、「キリストにあって単なる望みをいだいているだけ」の命のない信仰は絶望に砕かれ、「すべての人の中で最もあわれむべき」人となることでしょう。
見ないように生きてさえいれば、現実はそのようにならないよう手をゆるめてくれるでしょうか。
いいえ、むしろ一人一人の信仰を篩(ふるい)にかけるような時が来るとさえ聖書は語っているはずです。
【ヘブル12:26,27】
あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。
あなたの抱えている信仰にある望みは一時的で、消え去る類いのものでしょうか?あるいは永遠に残るものとしての望みでしょうか?
死を経てよみがえりに至る、よみがえりの命を持つ者、永遠の命を持つ、つまり永遠の時間に既に生きている者は、ここに永遠の望みを持っており、その望みは天地が揺らいでも揺るぐことのない絶対的なものなのです。
【ヨハネ 11:25,26】
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
この主イエスの御言葉は福音の中核に位置する言葉です。
あなたはここに確信を得ているでしょうか?
あなたは本当にあなたの内側で起こっているこの絶大な意味を知り、また受け取っているでしょうか?
万物は全て同じ定めの元に伏しています。それは死という結論を誰も免れることができないということです。そして、すべての人は死んだ後裁きを受けることが定まっているのです。
【ヘブル9:27】
そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、
しかし、我らの主イエスキリストは、この死を経てなおそれを覆し、よみがえられた方、死を無力なものとされた方なのです。そしてそのよみがえりを私達の内にも成就され、同様に私達に対して、死の恐怖をもって力を行使するあらゆるもの一切を無効化された方なのです。
そして、全てはこのよみがえりの内に、死は圧倒的な勝利に飲み込まれてしまったのです。
【1コリント 15:5】
「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
つまり、私達がイエスキリストと共によみがえりの命を生きる時、私達を取り囲み悩ましていた全てのものはその死と共に勝利の内に飲み込まれるのです。
そしてさらに驚くべきことに、私達はやがて完成する神の計画を、今私達の内に先取りして受け取る者となるのです。
これを今現在に受け取らせるものこそ、イエスが私達に与えたよみがえりの命なのです。
【黙示録 21:3,4】
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
このよみがえりの命(聖霊)こそ、主が私達に与えた栄光の望みであり、永遠に変わることのない宝として与えられたもの。そして、これがやがて与えられる天の御国において私達が完全に受け取るべきものを、今この地において前味として先に受け取らせる絶大なものなのです。
【エペソ 1:13,14】
あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
このよみがえりの命に潜在する絶大な力がいかなるものかを、私達がその本質を本当に知った時、私達はいかなる状況や時代に生きたとしても、それらのこと一切が私達には何の意味もなく、何一つ私達に力を及ぼすことができないものであることを知り、死から本当の意味で解放されることでしょう。
そして、むしろ私達の内に既に与えられているよみがえりの力のあまりに絶大であるがために、世界や歴史でさえ動かされる神の圧倒的な働きを目の当たりに見ることになるです。
【エペソ 1:19-23】
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。
神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。
どうか、あなたがこのよみがえりの命にあって生きますように。
どうか、あなたが今現在与えられている恵みばかりでなく、やがて与えられる天の御国を継ぐ保証として与えられている、永遠の命たる聖霊の絶大なる力と恵みを知り、神の知恵と啓示の霊をもって、神の永遠のご計画を知るに至りますように。