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神の国の福音 イエスの語られた福音

2013年07月17日 19:21

福音の本質が初代教会の時代に語られていた内容と、今現在語られている内容とでは大きく異なってしまっている。
この事実に突き当たった時、私は大きなショックを受けました。
というのは初代教会時代の教会と現存している多くの教会とでは、その力を全く失ってしまったと言っても過言でないほど、別のものとなってしまっています。
初代教会の時代に語られていた福音の力強さは、まさしくイエスがこの地を歩まれ宣教をされていた当時、また使徒行伝の時代に多くのクリスチャンを通して宣教がなされていた当時に起こっていた事実を聖書の中から忠実に読むのであれば、それは一目瞭然、現代とは比較にならないものであるということは言うまでもないことでしょう。
病が癒され、死人がよみがえり、悪霊が出ていき、毒を飲んでも害されることがない。
今の時代にはこれは絵空事のように思えるでしょうか?
あるいは詐欺紛いのもの、あるいは神の霊の働きとは一概に言えない危険のものとでも思えるでしょうか?
いいえ、違います。ここには神の確かで圧倒的な臨在があり、神の国がそこにあったのです。
手に取るように確かな形で、神の国が顕れているからこそ、現実は神の国の性質に従ったのです。
必ず死が訪れる呪われてしまったこの地の法則に従うのではなく、永遠の命溢れる天の法則に従ったのに過ぎないのです。
では長い時代の経過の中で大きく異なってしまった、福音の本質、その内容とは如何なるものでしょうか?

【マルコ1:15】
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

イエスはこの宣教の始めにこのように語り始めました。神の国の訪れをまず最初に伝えたのです。
そしてそのために、悔い改めて福音を信ぜよと。
さらに宣教が進められるとイエスは驚くべきことを語り始めました。

【ルカ 11:19,20】
もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。
しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

ここでは神の国は来たという過去形で、事実が語られています。神の国が近づいたところから、来たという過去にすでになされた事実となっているのです。
そして神の国がどこにきているのか、さらに所在が明確に語られます。

【ルカ 17:20,21】
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

つまり、神の国はどこそこにあるのではなく、私達のただ中にあるという大胆な宣言をしているのです。
神の国はすでに来たものであり、それが私達のただ中にある。これがいかに衝撃的な事実かわかるでしょうか。
本来神の国は天に存在しているものであり、私達には全く関係のないものと思っているでしょうか?
それとも教会を総称して、そこに神の国が来ているとだけ考えるているでしょうか?
しかしここで語られている神の国の顕れは人の目で見てはっきりとわかる、力を持って天の性質が顕現するものであり、雰囲気的に平安な、聖なる印象の、愛のある共同体として、と言ったイメージ的な天国的雰囲気を醸し出しているということとは全く異なります。
この地上の法則、秩序を超越した神の国が今私達の中、ここに来ており、それが現実の世界に力を持って現れて出ているということなのです。
ここに私達が入ることを、イエスは招いているのです。

【ルカ 16:16】
律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。

ここに突入するようにと神の国が宣べ伝えられた、これが福音の本質です。
さらにイエスの語られたことが、神の国についての説明に大半を費やされているという事実を、もしもあなたが福音書をそのような視点で読むのであれば、新鮮な驚きと共にその目で見出すことができるでしょう。
イエスは神の国について力強く語り、すでに来ているこの神の国に入るよう私達を招き、さらにその神の国の性質と、神の国の完成に向けての神の計画とを語ることに宣教の時間の大半を費やされたということなのです。
いかに神の国の福音が重要であるのか。
当時語られていた福音は神の国の福音であったのです。
「御国の福音」(マタイ4:23,マタイ9:35,マタイ24:14)
「神の国の福音」(ルカ4:43,ルカ8:1)
「神の国のことを語り聞かせ、」(ルカ9:11)
「神の国を告げひろめなさい」(ルカ9:60)
「神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝える」(使徒8:12)
「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。」(使徒28:31)

救いという事実の中には、これほどの絶大な計画と主の御心が注がれています。いかに私達は救いという事実を表層的にしか受け取って来なかったことでしょうか。
十字架により罪を贖われ罪なき者とされた。
その事実は、罪人は決して神の国に入ることができないからこそ、この神の国に入るために主がなされた御業であり、まさに主のご計画の入口に立ったに過ぎません。
確かに主が払われた贖いの代価は、あの万物を創造され、万物を保っておられる神の、その比類なきひとり子の血です。それは私達の創造をはるかに超えた絶大なる価値あるものを主は私達のために流されました。その事実の重さを、その厳粛な事実を前に私達はひれ伏さざるを得ません。
ここにすべての約束が集約し、すべてがあるのであり、救いを受けた私達はすでにすべてを与えられているのです。
が、その全容を私達は知らな過ぎるのです。
そのために多くの人がこの入口から先に入ることを知らず、神の国に入るよりも、これまで歩んできた生き方を元に信仰を建て上げようとするのです。その結果、世の宗教活動と何ら変わることのない力のない宗教が誕生するのです。
それは世に戻ってから信仰を世の上に建てようとする行為であり、主イエスが語られた福音とは全く異なった教えに過ぎません。
なぜなら、主は神の国に入れと言われているのです。
それは世の法則とは全く異なる性質を持つ、神(天)の性質に基づく、神の国に入れというのです。
この神の国において信仰生活を始めるのでないなら、どのようなことをしても、何も意味をなしません。

【マタイ 6:19-21】
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
あなたの宝のある所には、心もあるからである。

ではどのようにすれば、この神の国に生きることができるというのでしょうか。
それはあなたがすでにキリストにあって新しく生まれた、新生経験を持つクリスチャンであるのであれば、誰もが既に受け取っている、内に住まわれる神、聖霊の働きによります。

【エペソ 1:13,14】
あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

この「保証」という言葉には、前金という意味が含まれています。前金とは、先に一部代金を支払うことによって、その品物自体を受け取ることができるというもの。
つまり、私達が聖霊を受け取っているということは、神の国をやがて私達は確かに受け取ることであるけれども、その前味として、本来やがて受け取るべき神の国を今受け取っているということなのです。
やがて受け取るのは神の国の全体像、完全なる実体、神の国そのものですが、今はそれを部分的に受け取るということです。
とは言え、これが一部分を前味的に受けると言っても、神の国が私達の生活する現実に溢れ出てくるわけですから、そのスケールは私達の想像できないレベルのものです。
そしてこれこそが、イエスが地上を歩まれ宣教をされていた時代、また使徒行伝の時代に力強い伝道がなされた、その源となった真理です。
つまりエクレシア(私達)を通して、神の国をこの地上に来たらしめる、これが今の時代の私達に対する神の計画なのです。
私達が神の国に生きることにより、神の国を地上に来たらせ、神の計画を押し進める。
このことによって、やがて神の国は(ヨハネの黙示録の中にその全体像が語られていますが)完全なる形で完成します。神はその計画を突然完成させるのではなく、このように私達を通して徐々に段階的にその計画を、すでに進ませているのです。
あなた自身が本来いかに神の計画の中で重要な位置にいるのかということがわかったでしょうか。
そして、これは人の知恵によっては決して辿り着くことができない、神の知恵、聖書が直接あなたに語りかけている事実なのです。
いかなる聖書的・信仰的学問も、神の計画を捕らえることはできません。かつて聖書に関する学問の専門家であった律法学者や、パリサイ人、そして神の計画を担うために神に選ばれた選民イスラエルでさえ、人の知恵によっては神の計画を知るに至らなかったのですから。

【1コリント 2:6-8】
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。

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