【2コリント 3:17】
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
多くのクリスチャンが救いを受けていながら、閉塞感を感じることは多くとも、自由を感じることが少ない。そのような話をよく伺います。
確かに救われている者は御言葉にあるように、主の霊がその内に住まわり自由をもたらす筈です。
しかし一向にその様子を味わうことなく、むしろクリスチャンであるからこその制約があり、その中でいつ終わるとも知れない閉塞感を感じている。そんな実情を抱えている人が多いのではないでしょうか。
その自由とは如何なるものなのか?どうすれば得られるのか?
考える暇もなく、日常の生活や教会奉仕などの教会活動に追われる。
でも少し待ってください。そのままでは、あなたは疲れ果ててしまうまで、その状態を考えることなく続け、やがて何もなくなり擦り切れるまで、あるいは何も得られることなくとも、小さな喜びを信仰の中に無理に見つけるようにして生き続けなければなりません。
聖書は別の個所で自由についてこのようにも語っています。
【ヨハネ 8:32】
そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。
そのような人は、自由を得させるという真理を知っていない。
その内には御霊が住んでいるので、全てはすでに与えられたものであり、自由はすでに得ているはずなのですが、自由を得させるはずの真理が覆われているため、得ているはずの自由が偽られているのです。
【エレミヤ 52:31-34】
ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十五日に、バビロンの王エビルメロダクはその即位の年に、ユダの王エホヤキンを獄屋から出し、そのこうべを挙げさせ、
親切に彼を慰め、その位を、バビロンで共にいる王たちの位よりも高くした。
こうしてエホヤキンは獄屋の服を脱いだ。そして生きている間は毎日王の食卓で食事し、
彼の給与としては、その死ぬ日まで一生の間、たえず日々の必要にしたがって、バビロンの王から給与を賜わった。
ここには神から救いを受けた者、解放された者の本当の自由な姿の型が描かれています。
罪を犯し続け、神から背を向け続けたイスラエルは、神の計画の一端を担う神に選ばれた民でありますが、その重ねた罪、除き難い罪深さ故に、かつて神に背く 異教の民バビロンに捕囚されました。多くの民はバビロンの剣に倒れ、疫病と飢饉に命を落としましたが、それらはそれまでの罪の裁きの故に起こったこと、神 はモーセの時代からイスラエルの民がそのように神に背くことと、それに伴う裁きについてを再三語られたのですが、それを軽んじる程、神を侮った民に預言通 りの現実が迫ったのです。
しかし、当時素直にバビロンに捕囚された者には、やがて主を見出だし主により救われ解放されることを預言されていました。
【エレミヤ 24:4-7】
主の言葉がまたわたしに臨んだ、
「イスラエルの神、主はこう仰せられる、この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を、わたしはこの良いいちじくのように顧みて恵もう。
わたしは彼らに目をかけてこれを恵み、彼らをこの地に返し、彼らを建てて倒さず、植えて抜かない。
わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。
その結果として、解放された者の姿が、預言に基づき【エレミヤ 52:31-34】に語られているのです。
同時に、ここには後の時代の私達、救い主イエスキリストに救われた者達の、解放の真の意味が型として預言的に語られています。
【エレミヤ 52:31-34について】
それでは、その解放された者の姿とはどのような姿なのか。
私達救われた者達の本当の姿をここで共に見ていきましょう。
「獄屋から出し、そのこうべを挙げさせ、(31節)」
まさしく、救いを受ける前の私達は、自分自身が生まれながらに持つ、罪から来る結果としての死の判決を受けた生まれながらの死刑囚でした。
しかし、イエスキリストはご自身が罪となられ私達を義とされたのです。
【2コリント 5:21】
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。
義とされるとは、罪無しとされる、無罪とされたということです。
イエスキリストが私達の罪を負われ死を負われたことにより、私達は死刑囚としての身分を解放され獄屋から出されました。
イエスキリスト、神の子です。
神の子という方の考えられない程の絶大な価値ある犠牲により、その想像を超える程の大いなる命の代価により初めて、私達は無罪とされたのです。
もはや私達が罪に繋がれ罪の奴隷としてこうべを垂れ続けることはないのです。
「親切に彼を慰め、(32節)」
主は罪に捉われていた私達の過去そのものをも贖われる方、だからこそ、主が真に私達の慰めとなり得るのです。
罪にまみれ傷つき、傷つけて来た、どうにもならない過去はここで終止符を打ち、主による回復の道を、たとえそれが難しい道に思えたとしても備えてくださる神。
彼こそが自ら代価を払われた真の慰め主です。
「その位を、バビロンで共にいる王たちの位よりも高くした。(32節)」
そして、驚くべきことに私達を、全地にいる全ての王、また支配者よりも高い地位に着かせて下さったのです。
なぜなら、私達はキリストの花嫁として、その花婿キリストに贖われたのですから、私達の地位は救いを受けた時から、全地の王イエスキリストの花嫁としての王族の位置に着かせられるのです。
何と言う壮大な愛を受けていることでしょうか。
私達は救われたその時から、全地の王達の地位を遥かに超えた神の王国の王のロイヤルファミリーとなっていたのです。
「獄屋の服を脱いだ。(33節)」
私達はキリストと共に葬られ、また共によみがえったことにより、古き人を脱ぎ、新しい人を着たのです。そのことにより、罪人の服である獄屋の服を脱ぎ、私達は新しくされたのです。
【コロサイ 2:11-13】
あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。
あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。
【コロサイ 3:9,10】
あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
この新しい人を着たとは、イエスキリストを着たということです。
【ガラテヤ 3:26-28】
あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。
このことにより私達は王である方を着て、王族にふさわしい姿となりました。
いかに偉大な計画を主は私達一人一人に成し遂げたことでしょうか。
ただの罪人が王族とされる。イエスキリストの十字架の代価は私達を神の国において、考えられない地位の者として、私達を変えたのです。これが新生です。これこそが古い人から新しい人とされたということなのです。
「そして生きている間は毎日王の食卓で食事し、(33節)」
王と同じ食卓で食事をするとは、それほどの深い親しい交わりを意味します。
そして、私達は主ご自身との親しい交わりを回復しました。主に背を向けて生まれ、生き続けてきた者が、これほどの親しい交わりを与えられているのです。
この親しさの中で、私達の祈りを主は一言も漏らさず親しく聞き、御言葉を通し、また私達生きる時間の中のあらゆることを通して主はご自身の御心を親しく語られるのです。
「彼の給与としては、その死ぬ日まで一生の間、たえず日々の必要にしたがって、バビロンの王から給与を賜わった。(34節)」
私達は神の国においてのみ新生を受けたのではありません。この地上においても、私達は神との親しい交わりを回復しているのであり、そのことによって、この地上に生きるための私達の必要をも、主は当たり前のこととして心に止めておられるのです。
そこで、ここに主は私達の日々の必要にしたがって、その全てを主ご自身が満たされるという約束を表されています。
そうです。
これがあなた自身の本当の姿であり、これこそが本当の解放です。
自由とはただ罪が赦されて心が軽くなったとか、主を信じるのであれば、主に頼るのであれば、あるいは主が時により条件により祈りを聞いてくださるかも知れない、何となく幸運な人ではありません。
また信仰深く清く正しい品行方正な行動を重ねて生きることによって初めて、教会の仲間とされ、神の子とされるのでもありません。
私達はイエスキリストの一方的な愛に基づく犠牲のみによって、罪人から神の王国の王族とされ、それにふさわしい者となるべく罪の服を脱ぎ、キリストを着 て、王族の姿となり、王なる主とこの地上で親しく交わることをゆるされ、地上における日々の必要の全てを主に満たされて生きる者とされた、有り得ない程の 特権を与えられた者なのです。
これが救い、これが解放です。
もしも、神の王国を知らず、また自らの本当の姿を知らずに、不自由に生きるのであれば、それは既にこれらの特権を与えられているのにも関わらず、それを偽 られて、獄屋に自ら戻ってその中に閉じこもり、さらに罪の手枷足枷の鎖を自ら握り締めて、不自由な中に閉じこもって、「自由がない」と叫んでいるに過ぎま せん。
これは非常に残念な偽りです。
さらにその偽りが放置されるのであれば、キリスト教会の中でも互いを縛り苦しめ、閉塞感の中に眠る民とさせられてしまうのです。
主にある自由を得てください。
「真理は、あなたがたに自由を得させる(ヨハネ8:32)」のですから。