ヨシュア記に於いて、イスラエルの民がヨルダン川を渡り、新しい出発をし、新しい地に足を踏み入れ、先に主の約束された通り、主がイスラエルの民の先を歩まれ戦われその地を勝ち得た時、主は十二部族を各々治めるべき地に遣わされた後、彼らが主に従うか否かを試みられました。
つまり遣わされた地に戦うべき民を残しておくことにより、彼らをイスラエルの民の試練として置いておいたのでした。
それはエジプトを出て以来、イスラエルの民は未だ偶像礼拝を残し、主を侮り逆らう偽りが彼らの信仰の中に根強く残っていたからでした。
主にあるエクレシアとして、主のみこころを行う新しい歩みに足を踏み出した私達にも同様に、「信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ(1ペテロ1:6)」るために、訓練という課程が必要となるかも知れません。
今現在の状況が私達には、その力を越えて十分に困難な問題の直中にあると言えるのでしょうが、それはこの試みの内に私達の信仰が精錬されるべき時を迎え始めているのかも知れないということなのです。
試練は神への近道です。「いったい、父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。(ヘブル12:7-8)」と言われる方の、父としての本当の愛を知る時が来ている。それは始めの愛を知る者のみにゆるされた、神への愛を育み、キリストの花嫁として再び来られる花婿への愛を成熟させるべき時。この世、この地から心を離し、永遠の価値を知るべき時が、新しい地に足を踏み入れた私達に用意されているのかも知れません。
恐れることはありません。それこそが、狭き門から神の国に入る第一歩であり、神からの私達への絶大なる約束はそこに入って初めて受け取ることができるのですから。
聖書箇所:1ペテロ4:12-13