心にスーっと入って来た御言葉、特に救いをもたらせてくれた御言葉は釈義するでもなく、理屈なしに美味しく食されたことと思われます。しかし、いつもこういう食事ができるわけではなく、何らかの方法(メッセンジャーを介してなど)による学習を通して、「これこれこういうのが美味しいのだ!」と観念的に食していることが多々あります。釈義しなければならないことが確かにありますが逆にまずくしてしまうこともあります。こういうとき、御言葉が反芻されると本当の味を知っていくこととなります。日常の信仰生活におけるこれら一連の過程がロゴス的礼拝です。そして主が信仰者一人ひとりに絶対的に求めているのが霊と真理による礼拝であり、アダムとエバが単数形の罪を発生させてしまった直後に皮の衣を着せられたところから可能なのであり、要求されているのです。主が皮の衣を着せられた事実に新約の御言葉「主イエスを着なさい」(ロマ13:14)、「新しい人を着るべきことでした」(エペソ4:24)、「新しい人を着たのです」(コロ3:10)が重なっているからです。ですから受肉された方がサマリヤの異邦人の女性に「真の礼拝者達が霊と真理によって父を礼拝する時が来る。今がその時だ。」(ヨハネ4:23)と言われたのはま新しく言い出したことではありません。十字架上に永遠の贖い代である神の子羊の血を注ぎだそうという本番を目前に控えて、改めて霊と真理による礼拝立ち返らそうとしているのです。
そこでカインとアベルの捧げものについてですが、両親がそれぞれに「皮の衣を着せられた事実=霊と真理による礼拝」の延長線上にとらえるべきです。霊と真理による礼拝であるかどうかの違いは「最良」(品種)のもの、「自分自身で」の違いに現れました。多くのメッセンジャーはささげものには[血(のみ)=種類]を要求しているのだと主張しますが、それはささげる側が自分で血を準備しなさいと言っているのであり、福音の言葉に逆行します。-----誤った霊の食事が長い目で見て、霊の体に変調をきたすことがありませんように!
創3:-24、4:1-7、ローマ5:20-21、13:14、エペソ4:24、5:2、コロ3:10、ヨハネ4:21-26、詩2