主の御名を呼び求めている全ての人々と共に

わが道の光 詩篇46:10

2013年05月05日 15:14

【詩篇46:10】
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。

人は知ってか知らずか、神の前に自分の主張をし続け、騒ぎ立ちます。
その主張は自らを正しいとしながら、その善悪の内に争いを生み、果ては戦争に至るまでその主張は止むことはありません。
そのように歴史は重ねられてきましたが、それは神を信じるクリスチャンとても同様です。
悲しくも神の名によってまで主張を続け争いを生み出すのであれば、神を知らない者よりも神を悲しませることになります。
なぜなら、神はご自身の御心を一人だけに語ると言うことはないからです。
こんな喩え話があります。
神を知ると言うことは、盲人達が象を触って各々がその意見を話している状況に似ている。盲人達は各々象の一部分を触りながら、これが象だと主張する。ある者は耳を触りながら「象は広くてペラペラしている」と主張し、ある人は鼻を触りながら「象は長くてクネクネしていて器用に動く」と語り、ある人は足を触りながら「ざらざらしていて、太くて柱のようだ」と話します。
各々がこれこそが象だというならば、それは滑稽なほどあまりに象を知らないが故の愚かな主張に見えるでしょう。
そして、もしも互いに象はいかなるものか、その体験を分かち合うのであれば、象の全体像が互いにわかるのです。
神を知ると言うことも同様でしょう。神を知り、聖書を知り、神の御心を知るということが、私こそが正しいと主張することであれば愚かしい話です。
なぜなら神の全体像を一人の人が知るあるいは聖書の全てが解き明かされる、あるいは御心の全てがわかるというのであれば、その壮大なる情報量の全てを人が受け入れきれず、気が狂うか、存在が消滅するほど絶大なものでしょう。
だからこそ、無限なる神の恵みが各々に分散して与えられているのです。
兄弟姉妹と交わりを持つとはそのような意味合いがあります。
今生きておられる私の知る神を、その内なる命を互いに分かち合う時、私達は初めて神を知り、聖書を知り、主の御心を知ることになるのです。
そうです。だから聖書は次のように語っているのです。

【1コリント8:1-3】
しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。
もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。
しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。

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