主の御名を呼び求めている全ての人々と共に

記事のアーカイブ

2013年03月23日 21:12

KFC暴論シリーズ 第1シリーズ「この世とクリスチャン」

出張で海外に来ており、空港のビジネスラウンジでビールを飲みながらくつろいでいる、と言いたいところだが、周りのビジネスマンとおぼしき人たちはイヤホンを耳にしマイクでまくし立てて仕事の話をしたり、パソコンやアイパッドを忙しくたたいている。私もその中に同化してパソコンでメールのやり取りをしており、この世の流れに乗っからされている感じだ。 そこでふと「この世とクリスチャン」というシリーズでブログを書きたくなった。どこまで続くかわからないが、以下の記事ぐらいは書きたい。超独断と偏見に満ちており、かなりの暴言も入っていますが、参考として読んでください。 1.この世:切磋琢磨する競争社会 2.この世:遊び場
2013年03月23日 08:06

あのゴスペルソング

先日のメッセージの中でお話したゴスペルのある曲。これがその歌詞です。 When I think about the Lord How He saved me, how He raised me How He filled me with the Holy Ghost How He healed me to the uttermost When I think about the Lord How He picked me up and turned me around How He set my feet on solid ground It makes me...
2013年03月20日 14:51

ブエノスアイレスにて

ピリピ1:18見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。 ローマを日曜日に出てブエノスアイレスに来ている。こちらは新法王の出身地とあって、そこらじゅうに新法王の写真が貼ってある。昨日の就任ミサはこちらでも中継されたが、多くの市民が大聖堂の前に集まり、設置された大画面のテレビの前で徹夜でお祭り騒ぎをしていた。新法王は、ここアルゼンチンではまるでロックスターかアイドル歌手のようだ。 どのような形であれ、キリスト教がここブエノスアイレスで省みられていることは確かであり、キリストの福音が新法王の出身地を中心に広がること
2013年03月17日 19:00

10月15日 1列王記1:37

わが君、ダビデ王の王座 - 1列王記1:37 「ダビデ王」と民らは親愛の情をこめて呼びました。確かにダビデは1インチの細部に至るまで王でした。荒野で牧者として父の羊を牧しつつ、主の名によってライオンを追いはらった時も、彼は王でした。後にゴリアテがイスラエルを脅し、サウルですら恐れおののき、自らの民を治めることができなかった時も、ダビデは恐れることがありませんでした。王の心の中には恐れはないのです。しかし何にもまして、サウルからの逃亡者であった時、彼を追いつめつつも、直ちにその追跡から解放されるであろう一撃を与えることがなかったのです。これこそ真の王たる者のあり方です。自分自身の霊を制御で
2013年03月17日 18:36

ローマにて(その2)

イザヤ56:7わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。 日曜日の今日は、ホテルの近くにあるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂で祈りを捧げることにした。非常に大きな建物だが、中の一室では既に礼拝が行われており、観光客はそこには入れない。礼拝の音は外でも聞こえるので、大聖堂のいすに座り祈りをささげた。しばらくすると天が開け、御使い達が大聖堂を取り巻いている感覚がした。天からあたたかいいのちが流れ、涙が自然と溢れる。ふと顔を上げるといつの間にか周りで観光客たちが同じ様にいすに座り、熱心に祈りをささげていた。宗派を超えた熱心な祈りに、主が応えられたのだと感じた。礼拝が終わったのか、タイミン
2013年03月16日 23:13

キリスト者の本分

聖書箇所:1コリント11:23-26 私達のエクレシアの交わりは世の交わりとは大きく異なるものです。それは主の血と肉にあずかる交わり(1コリント11:23-26)であり、父ならびに御子イエスキリストとの交わり(1ヨハネ1:1-4)です。そして、このいずれもすでに救われた者だけを想定した交わりではなく、福音を告げ知らせるという意味が含まれているのです。かつてイスラエルの民が自らが神から選ばれた民であるということのみに特権意識を持ち、全人類の救いと主による全地の統治という主の本来の目的を見失った結果と同様に、もしも私達が福音を告げ知らせる者としての役割を退け、私達の喜び・満足だけを目的と
2013年03月16日 13:51

ローマにて

箴16:18 高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。 出張でローマに来ている。丁度到着したときに新しい法王が決まったということで、マスコミなどは騒がしかった。翌日サンマルコ広場に行ったが、お祭り騒ぎの後のような雰囲気が漂っており、マスコミの機材などが散らばっていた。いくつかのマスコミは一日経った後でもインタビューを行っており、カトリックの底力を感じた。 ローマ市内を回ったが、いたるところに古代都市の廃墟がある。日本では「おごれる者は久しからず」という有名な言葉があるが、この言葉はこの街にぴったりだ。
2013年03月10日 20:09

10月14日 使徒4:7

あなたがたは何の権威によって、また、だれの名によってこんなことをしたのか。-使徒4:7  私たちは主の昇天によってもたらされた全能の変化に目を置く必要があります。イエスの御名はナザレの大工の称号と共に、御座に座すお方のアイデンティティとして確立されましたが、さらにそこに止まりません。その御名は地にあるもの天にあるもの、さらには地の下にあるものがすべて膝をかがめるべき名であるのです。ユダヤ教の指導者たちでさえ、弟子たちが足なえを癒した時にこのような質問をすることにより、ひとつの名にそのような権威が与えられていることを認識していたのです。  今日、その御名は神が御子にあらゆる権威をお与えになった
2013年03月10日 19:54

人の幸福

古代ギリシャから現在に至るまで様々な人たちが幸福とは何かを考え、探求してきました。ある人にとって幸福とは快楽であり、ある人にとっては精神的欲求が満たされている状態と言うでしょう。歴史上最も賢く、最高の権力を持ち、世界で最も財産を持っていたソロモンは、その与えられた知恵で人の幸福とは何かを追求し、持てる権力と財力を使って快楽を追求しました。その持てる力を使って探求し、得られた結論は、「すべては空しく、風を追うようなもの」でした。 クリスチャンであっても神でないものに頼り、真に神との交わりを持っていない者は、いつか同じ思いを持つでしょう。ソロモンが人の限界と神の偉大さを知った時に得た結論は「神を恐
2013年03月10日 18:30

ルカ(3) ~ バイブルスタディー その63

イエスはその日に備え、ミニストリーに対する様々な訓練をされます。本来は預言的ミニストリーの側面を持つはずの現在の教会にも、必要な事柄です。本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです。 ルカ9章: ミニストリーの訓練と山上での変貌 9:1 主が権限を与えられるのは、悪霊を追い出し、病気を癒し、神の国を宣べ伝えるため 9:33...

お問い合わせ先

Kingdom Fellowship Church 公式サイト

kingdomfellowship@excite.co.jp

横浜市神奈川区二ツ谷町10-1二ツ谷ビル3F

050-5532-2191

サイト内検索

© 2013 All rights reserved.| Webnode AGは無断で加工・転送する事を禁じます。

無料でホームページを作成しようWebnode