主の御名を呼び求めている全ての人々と共に

メッセージアウトライン

2013年07月14日 19:24

真実な十字架を直視

今のKFCはネットの向う側に、あるいはそれぞれ遣わされたところにいのちを流したい、光を届けたいと思う反面、燈台下暗しになっていると思われます。主の真実な十字架上の姿を直視しなおすべきです。それは霊から生まれる者は霊であるところの生い立ちを直視することでもあります。 主イエスの十字架刑の執行現場に居あわせた多くの群集にとって「十字架につけろ!十字架につけろ!」「その人の血は我々の子孫にふりかかっていい」の言葉に代表されるようにローマ帝国が課す、極悪人がつけられるべく一般的な十字架でしかありませんでした。 しかし、百卒長には「この方はまことに神の子であった。」の告白のとごく、主の十字架の真実な姿を
2013年07月07日 19:17

キリストへの純潔

聖書箇所: イザヤ54:1-10 主は私達をずっと以前から、「わが花嫁よ。わが花嫁よ。」と呼びかけていてくださいました。それは私達に何か特別な資格があるとか、特別な理由があるというのではなく、むしろただひたすらに主の忍耐によって、私達を一方的にそう呼んでいて下さったに過ぎないと言えるでしょう。それほど、私達の心は一つではなく、むしろ主以外のあらゆるものに心奪われ、移り気で、とても小さな未成熟な愛によるもので、主のそのような呼びかけにとてもふさわしいと言えるような者ではありませんでした。 それでも、主がそう呼び続けてくださったのは、「永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ(イザヤ54:8)」
2013年06月30日 17:28

教会

日本語で言う「教会」とはエクレシア、すなわち召し出された者達の集まりを意味します。私たちはサタンの支配するこの世から召し出されたのであり、それまではサタンの霊や肉に従って生きていました。その生活から召し出され、神の国へと招待されたのです。この世から召し出されたということは、サタンの支配から神の支配に移されたことを意味します。事実、私たちはキリストのからだにつながれたのです。では、私たちは神の国に入っているかというと、完全に神の国に入っているわけではなく、相変わらずこの世で暮らしています。何故神は召しだした私たちを天にある神の国に入れずに、この世で生活させているのでしょうか? 神の国はすでに来て
2013年06月24日 22:30

霊と真理による礼拝

心にスーっと入って来た御言葉、特に救いをもたらせてくれた御言葉は釈義するでもなく、理屈なしに美味しく食されたことと思われます。しかし、いつもこういう食事ができるわけではなく、何らかの方法(メッセンジャーを介してなど)による学習を通して、「これこれこういうのが美味しいのだ!」と観念的に食していることが多々あります。釈義しなければならないことが確かにありますが逆にまずくしてしまうこともあります。こういうとき、御言葉が反芻されると本当の味を知っていくこととなります。日常の信仰生活におけるこれら一連の過程がロゴス的礼拝です。そして主が信仰者一人ひとりに絶対的に求めているのが霊と真理による礼拝であり、ア
2013年06月16日 18:51

イエスとの交わりによる成長

私達を育てて下さるのは、人ではなく主イエスキリストです(1コリント 3:6)。そのためにイエスは私たちに様々な試練をお与えになったり、各々に異なった形での交わりに招いて下さったりします。その招きに応じるかどうかは、その人たち次第です。応じた人は不思議な導きや力を感じるでしょうし、応じることに躊躇した人たちは、心に穏やかではないものを感じるでしょう。イエスは私たちの意思を尊重されますので、心の扉を無理に開けることはなさいません。その扉を開けるのは私たちです。これらの招きは何度もありますが、招きに応えず、イエスに立ち去られた経験をお持ちの方も多くおられるでしょう。 しかしこの招きの経験を
2013年06月09日 17:31

永遠の都を望んで

聖書箇所: ヘブル11章 私達はキリスト者として生きる目的を本当に知っているでしょうか。 多くの兄弟姉妹がこの地上に生きることに目的を置き、むしろそのことによってこの世に敗北し、生きる目的を見失っています。それはこの世の君が支配する場所で、この世の摂理の中に戦いを挑んだが故の当然の結果と言えます。しかし私達の生きる目的は別の所にあります。それは主が完成された御業、新天新地を今聖霊の内に与えられている者として、つまり御国の証印たる聖霊を内にいただいている者として、主の完成された計画を一日も早く成就されるよう、その計画を進めるという目的です。旧約新約を貫き、主に喜ばれた聖書の登場人物達は主のこ
2013年06月02日 17:55

「くじ」の持つ霊的メカニズム

聖書のいうところの「くじ」が持つ霊的メカニズムは自分(参加者)の意思の入り込む余地のないものです。まさに「私」がサレンダーされている領域です。そして良い意味においても悪い意味においても主の主権(御旨)のみが行使される領域であり、参加者の人生に大きく影響を及ぼすものです。聖書の実例として12使徒から脱落したイスカリオテのユダの補充としてマッテヤが選ばれた場面、聖絶すべきものを保有したアカンの罪が明白になった場面に触れてみたいと思います。実は昨年の春、この「くじ」、主が迫ってこられたときにキリストの肢体であるKFCの膝の上に投げられていたのです。もちろん良い意味においてです。しかし、幸か不幸か?「
2013年05月26日 19:07

いのちの流れその3解放とイエスの喜び

イエスキリストは真理でありいのちの源です。そのいのちがイエス キリストから直接教会に流れている状態が、健全な状態と言えるで しょう。そして教会が健全な状態にあるかどうかを知る指標の一つ が、解放感と喜びです。 イエスキリストという罪を知らない御方が十字架にかかってくださ り、私たちを肉の弱さ、恐れや不安と言ったことから解放してくだ さいました。また、キリストは喜びの油で満ちており、私たちの中 におられるその喜びの油によって私たちも満たされるのです。私た ちがイエスキリストと親密な関係を保っていれば、これらの感覚は キープできるでしょう。 しかし私達は地では世の中に住むもので
2013年05月19日 22:05

エクレシアにおける新創造

主は私達にかなり早い段階から、ハガイ書やエズラ・ネヘミヤ記を通して、主の宮の再建について語ってこられました。これはあくまで"再建"であり、新しく宮を建て上げるというものではありませんでした。あるいはそのままの状態で主のさらなる大きな栄光を見るという、単純な宮の栄光の拡大でもありませんでした。 私達のエクレシアが、バビロン捕囚後の焼け野原、荒れた更地のようになったエルサレムに見るように、主の聖別を経て、前の栄光よりもさらに大きい主の宮の栄光を見る、つまりはエクレシアが死を経てよみがえりに至り、勝利が死を飲み込む姿を見るということをかなり以前から語られていたという事実を知るのです。 私達は旧創造か
2013年05月12日 17:49

いのちの躍動感 イザヤ40:31

信仰の歩みにおいて諸々の問題に直面する度、主(の御業あるいは解決)を待ち望むことになりますが、その究極は贖いの完成をもたらすことになる再臨です。そこに希望を持ち続けること(特に意識したとき)は、信仰者に既に与えられているキリストの命に活力と躍動感をもたせてくれます。ですから私たちがいのちを流そうとするところにも当然それ等が付随しています。しかし、世に在ることがつらい、希望が持てない(クリスチャンにとっては当然)といった理由で携挙を願うのは刹那的であり、不健全です。流す以上はパウロのように大使の役を担うべきです。大げさと思われる方がいらっしゃると思われますが、キリスト者には大使として必要不可欠な

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