この世の夜の遊び場は刺激に富んでいる。ジャズなどの音楽や美食を堪能できる、ということも理由の一つだが、刺激に富んでいる大きな理由は男女の交友関係の深化をはかれる場であるということ。そこには聖書にある「不品行」を制御する厳しいおきてはなく、本人達の同意が得られればどこまでも深みにはまることができる。男女交友関係にあって男性は割と単純で、ちょっとカワイイ女性をゲットしたいという思いに満ち満ちて、夜の遊び場を利用する。従ってだれの目にもその思いはミエミエになってしまう。女性は男性よりはるかに狡猾であり(私が思うに)、定めた男性をゲットするためにあらゆる手段を自然に繰り出すことができる(カワイ子ぶったり泣きだしたりと結構大変)。もちろん最後の決め手は一夜を共にすることだ。
就職した頃はバブル絶頂で、よく働き、良く遊ぶをモットーに、ある意味活発に活動していた。いろいろな人たちとのネットワークが男女の違いや国籍を超えて広がって行った。男女雇用機会均等法ができ、国際化が叫ばれた時代だったので、女性の社会進出も活発になり(表面的には)、バイリンギャルなる人たちも大勢現れ、肩パット入れて遊びにも仕事にも頑張っていた。またバブルの甘い蜜に誘われて、金融系の金持ち外国人達が増え、六本木などに集まるようになった。私もいつの間にかその仲間に加わり、日ごろは地味に深夜まで働き、金曜の夜から日曜までは英語を交えて徹夜で遊びまわった。
死体の集まるところ、はげたかも集まる(ルカ17:37)の御言葉通り、国際色+バイリンギャルのきれいどころということで、パーティなどを行うと様々な人たちが集まった。もちろん集まる理由は、金持ちの金融系外国人イケメンをゲットするために集まるバイリンギャル達と、一夜の性的はけ口のためアジアン女性を求める外国人男性達を中心に、男女の刺激を求めて若い男女が六本木などの飲み屋に集まるのである。従って仲間を中心としたパーティに知らない人がいつのまにか大勢加わり、男女入り乱れてその場限りの刺激を堪能していた。日曜日の昼近くに起きると知らないマンションの一室にいたということも結構あった。お日様がまぶしかったなぁ。遊びも仕事も自分たち中心に回っているような、自己中心極まりない錯覚まで起こしていた。
しかし刺激たっぷりの時代はバブル崩壊と共に消滅。片意地張って闊歩していたバイリンギャルたちは、結構普通に結婚し、子供産んだりしたなぁ。バブルで日本にやってきた金融系のアメリカ人たちは、バブル崩壊と共に帰国か、クビ。外資系の素早くドライな対応に、この世の厳しさを見た気がした。祭りの後のむなしさだけが残り、快楽を求めても意味がないとまで思いだした。まさにこの世の遊び場は魅力たっぷりだ。それこそどこぞの集会でおこなわれているペンテコステ系の奇蹟だ!癒しだ!という集会よりもよほど刺激的だが、すべては空しく、風を追うようなものだ。
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敵が待つエルサレムにいよいよ入場し、苦難と十字架への道をイエスは歩まれます。イエスの王権が浮き彫りになって行きますが、預言的側面を忘れないように注意してください。本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです。
ルカ17章: 弟子たちへの教えといやし
17:5-6 信仰は量ではない。主のいのちがあるかないか。
17:7-10 我々は単なる器であり、成してくださるのは主であることを忘れてはならない。働き手(牧師、伝道者など役職含む)はあくまで主のしもべであり、謙遜であり続ける必要がある。
17:19 体だけではなく魂まで救われたのは、外国人の一人だけ。
17:21 神の国は信仰がないと見えない。
17:37 主の初臨はわからない人もいたが、再臨のキリストは誰の目にも明らかとなる。
ルカ18章: 神の国への道
18:1-8 主の再臨に対する祈り。御國が地上に現れるには、私たちのしつこい祈りが必要。
18:10、18 パリサイ人も役人も自己義認をしていた。⇒私たちも陥りやすい。
18:43 目が見えないという自覚がある盲人は、必死に主にすがろうとする。心の目が見えてないという自覚が、まず必要。
ルカ19章: メシヤの拒絶
19:10 主が地上にこられた目的。15章の失われた羊のたとえと関連。
19:11- 3種類の人が登場:
- 忠実なしもべ:神の国の統治を任される。
- 悪いしもべ:多くのクリスチャンが、このしもべになるかも。
- 敵:クリスチャンではない人々
19:46 教会は強盗の巣に変質
ルカ20章: 宮での教え
20:1 祭司長、律法学者、長老達:既得権益がある者達。ずる賢さがある ⇒ 47 やもめの家を食いつぶし、私腹を肥やすことに長けている。サタンの思いが現れている(20:14など)。
20:19 サタンの思いを投射された祭司長、律法学者達は気づいた。
20:25 所有権の問題。この世のことはこの世の権威に従うこと。
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この世とは、サタンによって支配されており、ある意味魅力たっぷりの世界のこと。「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」を求めて、人々は日々切磋琢磨する競争社会である。自分のために生きる世界であり、皆「平等」、「愛」などときれいごとを並べ立てるが、結局は自己中心。そしてその傾向は終末が近づくにつれて高まっているように感じる。自分ではなく、「神中心」の神の国とは意識のベクトルがまるっきり逆である。このためクリスチャンは世の中では寄留者と呼ばれる。すなわち、この世では自分の住む世界ではないような感覚がつきまとう。。。。ハズ。この感覚が無い人は、この世にどっぷりかも(いわゆる霊的に麻痺してるってこと)。。。ご注意を!!
また競争社会の中で戦う前から逃げ、教会というコミュニティーなるものに逃げ込んでいる若者はいないか?それは寄留者ではなく、単なる負け犬 。。。。こちらはもっとヤバイ。
激烈な競争社会で生き残るための訓練を日々行っている人たちに打ち勝つためには、まず自分をしっかり見つめること。祈る前に自分の能力がどのレベルなのかを見極めよ。祈ると称して自分自身の能力不足から目を背けること無かれ。まず能力を見極め、必要な能力が得られるよう祈り、努力すること。主はその努力に応えて下さるでしょう。努力せずに祈ることのみで、切磋琢磨している世の人たちと同じ能力を得る事は、期待しないでね。
しかし、この世の人たちと同じ目的で訓練しようと思うわない事。寄留者が自分のために鍛え、この世の欲望を追及してもしょうがないでしょう。この世での戦いは、主との交わりを深め、立ち上がること。エジプトで宰相の地位に着いたヨセフのように。
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イエスの様々な形での教えが続きます。ここでも、イエスの預言的側面や預言者の継承者としての側面に注意して読んでいきましょう。本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです。
ルカ13章: 様々な教え
13:3、10 律法的になっていたユダヤ人たちは、心から悔い改めることもできなかった。安息日の心も理解していなかった。
13:20 女がパン種をとって混ぜる傾向。今も同じ。
13:24 狭い門から入るには、努力が必要。主に向かって歩むこと。
ルカ14章: 弟子の資格
14:18-20 世の中に財産を残している者たちほど、手放し難い。
14:18-23 食卓に呼ぶ順番:ユダヤ人、病んでるもの、その他全員
14:27 十字架を背負う(魂を十字架に付ける)ことが弟子の条件。
ルカ15章: 失われた者についてのたとえ
3つの喩えは、総べて神様からの視点。
15:11- 放蕩息子。15:18弟は使い果たして悔い改める。15:30 弟のためにこえた子牛(イエス)をほふられた。兄(パリサイ人など)は弟を兄弟だと思っていない(あなたの息子15:30)。15:31兄はたかぶりのため、主の近くにいても平安がない。
ルカ16章: 神の御国に入るためのチャレンジ
16:13 両方に仕えることはできないが、どうしてもこの世の富に仕えようとする。
16:23-31 ハデスに落とされても、金持ちは悔い改められない。
16:31 金持ちのパリサイ人は。律法を知っていたが聞いていなかった。
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出張で海外に来ており、空港のビジネスラウンジでビールを飲みながらくつろいでいる、と言いたいところだが、周りのビジネスマンとおぼしき人たちはイヤホンを耳にしマイクでまくし立てて仕事の話をしたり、パソコンやアイパッドを忙しくたたいている。私もその中に同化してパソコンでメールのやり取りをしており、この世の流れに乗っからされている感じだ。
そこでふと「この世とクリスチャン」というシリーズでブログを書きたくなった。どこまで続くかわからないが、以下の記事ぐらいは書きたい。超独断と偏見に満ちており、かなりの暴言も入っていますが、参考として読んでください。
1.この世:切磋琢磨する競争社会
2.この世:遊び場は魅力たっぷり
3.この世:世の男の方が魅力的?
4.この世: あなたはどちらを選びます?
ではお楽しみに!!
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イエスはその日に備え、ミニストリーに対する様々な訓練をされます。本来は預言的ミニストリーの側面を持つはずの現在の教会にも、必要な事柄です。本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです。
ルカ9章: ミニストリーの訓練と山上での変貌
9:1 主が権限を与えられるのは、悪霊を追い出し、病気を癒し、神の国を宣べ伝えるため
9:33 モーセ、エリヤが別れるとき、ペテロに言って欲しかった言葉は「イエスの御言葉に従う」(35)という言葉だったかも。
9:41 不信仰のために悪霊を追い出せなかった。⇒弟子訓練を受けたが、弟子達には悪霊を追い出すことの意味、主がなしてくださることの意味が分かっていなかった。⇒9:54 自分たちが天から火を起こせると勘違い、高ぶっている。
9:46 イエスが救い主であり、新しい国をお造りになると思い始め、自分たちに色々な権威が与えられたと感じ始めたとたん、出世のことが気になり始める。⇒現代も同じ。
ルカ10章: 弟子たちの派遣
10:3 12弟子たちを使わされた時よりも、霊的戦いは激しくなっている。
10:4-12 12弟子たちよりも、福音の言葉の拒否に対して厳しくなっている。
10:13、15 コラジン、ベツサイダ、カペナウム ⇒福音を拒否したことの罪は重い。
10:17 弟子達は勘違いしている。悪霊は主に服従。
10:20 奇跡を起こした時に必要なことは、名が天に書き記されていることを喜ぶことのみ。自分が奇蹟を起こすわけではない。
10:28 御言葉を知ったら、実行することが必要。そうすればいのちを得る。
10:29 神学を知っても実行しない。自分の正しさを示そうとするだけ。
10:39、41、42 最も重要なことは、主の足元にすわって、主御自身の御言葉に聞き入ること。人から伝えられる間接的な言葉ではない。
ルカ11章: 様々な教えとパリサイ人の敵意
11:1 ヨハネも祈り方を教えていたように、イエスにも祈り方を尋ねる。⇒ 当時の教師の祈りとは異なるものを感じたのか。
11:5-8 サタンが支配する夜である現代に、三位一体の神(三つのパン)によって新しい御国が来るように、七日目の安息に入られている主に対してしつこく祈る必要がある。
11:43-44 悪霊との戦いが激しくなるとともに、パリサイ人たちへの批難も厳しくなっていく。
ルカ12章: その日のための正しい態度
12:10-12 ペンテコステ後の、聖霊の働きと使徒の活動についての注意事項を述べている。
12:46 不忠実な者ども(世の者たち)と同じ目に会う。⇒ いのちの書から消されることもある?
12:47、57 クリスチャンとなり、聖霊を受けたあとの行動や何が正しいかを判断するのは、自己責任。
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【1コリント 15:17-20】
もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
あなたはよみがえりを信じているでしょうか?
イエスキリストがよみがえられた事実と、あなた自身がよみがえったという事実。これをあなたの主観的事実として、受け取っているでしょうか?
全てイエスを救い主として受け入れ信じたクリスチャンは、キリストにあるバプテスマ、つまり洗礼を原則として受けているはずです。
これはキリストの死に預かることと、それにより同時にキリストのよみがえりに預かるということであり、クリスチャンとなった者には共通の経験です。
【ローマ6:3-5】
それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
しかし、この洗礼が信仰入門、あるいは教会会員として入会するための通過儀礼的な宗教儀式として、形骸化した経験しか持たないのであれば、それは最も望みのないものです。
この十字架の死とよみがえりの事実を自分の主観的現実(経験)として受け入れられず、またよみがえりの絶大かつ圧倒的な恵みを、その本質的な意味を全く知ることなく、クリスチャンとして生涯を送る人達は、「この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけ」の虚しい人、「すべての人の中で最もあわれむべき存在」であると言えるのです。
そしてその事実に基づきあなた自身の持っている信仰の真価が問われるように、時代は厳しい現実を世界中に突き付けるものとなってきました。
ある人はこの厳しい現実を見ないように生きているかも知れません。確かにそのような傾向は社会全体の流れにおいても、あるいはクリスチャンであっても、信仰者の集まりである教会や教団といったものの中でも、見受けられるのですが、だからといって心の奥底を言い知れない不安で覆ってしまうような厳しい現実が、個人個人の生活を襲って来ているのは紛れも無い事実です。
確かにここに不安を抱えて生きているのは不信仰のように思われ、口にするのをはばかり、あるいは信仰を奮い起こすように何事もないかように生きることもできるでしょう。
しかし、この現実が加速度的に力を持ってあなた個人の生活に襲うようになるのであれば、「キリストにあって単なる望みをいだいているだけ」の命のない信仰は絶望に砕かれ、「すべての人の中で最もあわれむべき」人となることでしょう。
見ないように生きてさえいれば、現実はそのようにならないよう手をゆるめてくれるでしょうか。
いいえ、むしろ一人一人の信仰を篩(ふるい)にかけるような時が来るとさえ聖書は語っているはずです。
【ヘブル12:26,27】
あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。
あなたの抱えている信仰にある望みは一時的で、消え去る類いのものでしょうか?あるいは永遠に残るものとしての望みでしょうか?
死を経てよみがえりに至る、よみがえりの命を持つ者、永遠の命を持つ、つまり永遠の時間に既に生きている者は、ここに永遠の望みを持っており、その望みは天地が揺らいでも揺るぐことのない絶対的なものなのです。
【ヨハネ 11:25,26】
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
この主イエスの御言葉は福音の中核に位置する言葉です。
あなたはここに確信を得ているでしょうか?
あなたは本当にあなたの内側で起こっているこの絶大な意味を知り、また受け取っているでしょうか?
万物は全て同じ定めの元に伏しています。それは死という結論を誰も免れることができないということです。そして、すべての人は死んだ後裁きを受けることが定まっているのです。
【ヘブル9:27】
そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、
しかし、我らの主イエスキリストは、この死を経てなおそれを覆し、よみがえられた方、死を無力なものとされた方なのです。そしてそのよみがえりを私達の内にも成就され、同様に私達に対して、死の恐怖をもって力を行使するあらゆるもの一切を無効化された方なのです。
そして、全てはこのよみがえりの内に、死は圧倒的な勝利に飲み込まれてしまったのです。
【1コリント 15:5】
「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
つまり、私達がイエスキリストと共によみがえりの命を生きる時、私達を取り囲み悩ましていた全てのものはその死と共に勝利の内に飲み込まれるのです。
そしてさらに驚くべきことに、私達はやがて完成する神の計画を、今私達の内に先取りして受け取る者となるのです。
これを今現在に受け取らせるものこそ、イエスが私達に与えたよみがえりの命なのです。
【黙示録 21:3,4】
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
このよみがえりの命(聖霊)こそ、主が私達に与えた栄光の望みであり、永遠に変わることのない宝として与えられたもの。そして、これがやがて与えられる天の御国において私達が完全に受け取るべきものを、今この地において前味として先に受け取らせる絶大なものなのです。
【エペソ 1:13,14】
あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
このよみがえりの命に潜在する絶大な力がいかなるものかを、私達がその本質を本当に知った時、私達はいかなる状況や時代に生きたとしても、それらのこと一切が私達には何の意味もなく、何一つ私達に力を及ぼすことができないものであることを知り、死から本当の意味で解放されることでしょう。
そして、むしろ私達の内に既に与えられているよみがえりの力のあまりに絶大であるがために、世界や歴史でさえ動かされる神の圧倒的な働きを目の当たりに見ることになるです。
【エペソ 1:19-23】
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。
神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。
どうか、あなたがこのよみがえりの命にあって生きますように。
どうか、あなたが今現在与えられている恵みばかりでなく、やがて与えられる天の御国を継ぐ保証として与えられている、永遠の命たる聖霊の絶大なる力と恵みを知り、神の知恵と啓示の霊をもって、神の永遠のご計画を知るに至りますように。
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弟子を招き、イエスの活動がいよいよ本格化しました。ここで私たちが注目するのは、イエスの預言的なミニストリーの活動です。本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです。
ルカ5章: 弟子達の召命
5:5 ペテロは、この時イエスを先生と考えていたが、「お言葉どおり。。」と素直に反応できた。
5:8-11 イエスの聖に触れたペテロは、自分の罪深さを思い知り、ひれ伏し、何もかも捨てて主に従う。
5:19 真の友は、癒しが必要な人を主の前に連れて行く。イエスの前にクリスチャンを連れて行く事が重要であり、イエスとクリスチャンの間に入ってそれを阻まないように注意する必要がある。特に牧師達。
5:21 パリサイ人たちは主の御心を知ろうとせず、自分たちのルールを基準に理屈を考え始める。
ルカ6章: 使徒の召命と神の国の教え
6:20 使徒を選んだ後、神の国の教えを教えられる。⇒神の国の教えを完全に実行したのが、イエスキリストの十字架。
6:27- 好き嫌いに関係なく、総べてに注がれるアガペー愛。フィレオの愛ではできない。
6:31 目には目をの教え
6:44-45 「実」は結果。主の願いは良い木に成長すること。良い実を成らせることに注目するのではなく、良い木に成長することに心がける。
6:46-47 聞くことと行うことは密接に結びついている。
ルカ7章: ガリラヤ周辺での宣教
7:8 権威に従う姿勢がすばらしい。
7:28 肉から生まれた者で最も優れているのはヨハネだが、霊から生まれたキリスト者には及ばない。
7:47 自分にある多くの罪を知って悔い改めたものは多くを許され、よけい愛することができる。罪の自覚が少なく悔い改めがないものは少ししか許されず、少ししか愛せない。
ルカ8章: 悪霊を追い出す
8:21 主にある兄弟姉妹:神の言葉を聞いて行う人々
8:22-39 悪霊達との霊的な対決。
8:39、56、5:14 異邦人には神の御業を告げるように、ユダの国では話さないように注意されている。⇒ 栄光がイエスではなく神に行くように、そしてユダヤ人達がイエスという救い主につまづかないように配慮されている。
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旧約の預言者たちによって示された日が、現実のものとなって地上で実現しました。まず道を整える者が現れ、そして約束のお方が地上に降り立ち、活動が開始されます。本日の交わりで、光があたった個所は以下の通りです。
ルカ1章: ヨハネの誕生とイエス初臨の予告
1:18,34 ザカリヤとマリアの反応の違い。ザカリヤはしるしを求めた。マリアは理由を求めた。
1:17 エリヤの霊:罪を糾弾し、明らかにする霊。
1:43 マリヤとエリサベツは半信半疑だが、信じられることを祈る。 ⇒主から御言葉が来たときの対応。
ルカ2章: イエスの誕生
2:8-10 イエスの誕生を最初に知らされたのは、羊飼いたち。
2:26 マラキ以降、主の公の御言葉はなかったが、聖霊の働きは活発であった。
2:31-32 御救いが全世界に及ぶという、御霊に満たされたシメオンの預言
2:19、51 マリヤは頭では理解できなかったが、イエスのことを継続して思っていた。
ルカ3章: イエスの洗礼と系図
3:7 ヨハネの福音は厳しく、塩気たっぷり。道を整える者、エリヤの霊だから。
3:22 三位一体の神の現れ。
3:24 マタイとは異なり、アダムからの系列を示す。救済が人類全てに及ぶことを暗示。
ルカ4章: サタンの試みと宣教の開始
イエスの真理の言葉に対し、地元の人々は敵対的(魂の)に反応、悪霊は恐れの反応。
4:2 サタンは、イエスの活動開始の直前、肉体的に最も弱っている時にささやいた。
4:3-12 イエスはサタンの誘惑に対して御言葉で直接応える。アダムは善悪の知識の木のことを神から直接聞いたが、エバは間接的にしか聞いていなかった。そのため御言葉で直接対応できなかった。⇒ 御言葉を人や本などから間接で受けるのではなく、聖書を直接読んで御言葉を受け、自分のものとしておくことが必要。
4:34、41 人々より悪霊の方が、イエスに対する感知能力がはるかに優れている。
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~御言葉の学び~
箴言について学んでます。教え、導かれるのは主イエスキリストです。
月日 |
|
聖書 |
箇所 |
6月23日 |
Week 1 |
箴言 |
1-4 |
6月30日 |
Week 2 |
箴言 |
5-8 |
7月7日 |
Week 3 |
箴言 |
9-12 |
7月14日 |
|
休み |
|
7月21日 |
Week 4 |
箴言 |
13-16 |
7月28日 |
|
休み |
|
8月4日 |
Week 5 |
箴言 |
17-20 |
8月11日 |
|
夏休み |
|
8月18日 |
|
夏休み |
|
8月25日 |
Week 6 |
箴言 |
21-24 |
9月1日 |
Week 7 |
箴言 |
25-28 |
9月8日 |
Week 8 |
箴言 |
29-31 |
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